映画はやっぱり恐ろしい

1962年に第1作が誕生したピンク映画というジャンルを、インタビュー中心に多角的に考察したドキュメンタリー。渋谷アップリンクXにて。
日本におけるピンク映画というジャンルは、形式上の約束事さえ守れば好きな映画がつくれるという側面をもったことによって、才能ある映画監督たちの試行錯誤あるいは遊戯の場として独自の道を生きてきた。警察や映倫の規制という枠組み、商業的に成立するのかどうかという枠組み、それらが強く存在したために、つくり手は常にいかに映画をつくるかという問題と葛藤し続けたのだろう。映倫の不条理な規定……たとえば、足立正生がインタビューで答えたように、フルサイズの画面では男女双方が全裸になってはいけない、などという規定が、他の方法で性行為の演出をするためにいかなる方法が可能かという試行錯誤へとつながる。これはハリウッド映画におけるヘイズコードと同様、映画表現を規制したと同時に、映画表現を逆説的に守るものでもあったのだ。
今もなお、基本的に予算300万、撮影日数約3日で制作されるピンク映画は、前貼りを付け本番をしないということによって、アダルトビデオとは異なる映画としての道を歩み続けている。確かにそういった制約はすでに商業的に厳しいこの業界において、映画への愛という名の下に正当化されるというより、ピンク映画はそうなっているものだから、という惰性に思えなくもない。ピンク映画を観に行ってセックスシーンの退屈さに辟易することはしばしばある。かつて若松孝二の極端なアップばかりで何が起こっているのか分からなかった性描写は、乳首も尻の割れ目も陰毛も映されはしないが、とにかく画面は圧倒的な緊張感が張りつめていた。まあそんなことをいっても、今のピンクには今のピンクなりの描写がありえるはずだ。実際に面白い映画もたまにある。
藤井謙二郎の『ピンクリボン』はこれまでにピンク映画業界に関わった人、今もなお関わっている人へのインタビューが中心だけど、実に様々な角度からアプローチが繰り返される。興行、歴史、形式、監督、男優・女優、タイトル、宣伝、名作……。女池充監督の現場への密着もときおり挟みながら、ピンク映画なるもの、ピンク映画なるものに関わる人たちをとらえてゆく。
そして、終わりに近づくに連れて、ピンク映画はすなわち「映画」になってゆく。かつてはピンクが映画の縮図としてあったと言われるが、それは今も同じである。テレビなどの資本の下、商業的につくられた映画とデジタルビデオカメラを用いコストもリスクも最小限で撮ることができる極私的映画の狭間で、ピンク映画の原理はひたすら「映画」であり続けることをやまない。ただし、そのピンク映画でさえ、「映画」をつくるということへの情熱は失われつつあるというのもどうやら事実らしい。足立正生若松孝二渡辺護が活気づいていて、高橋伴明井筒和幸が少し冷めた様子で、黒沢清が飄々と、女池充が疲れきった様子で語っているのを見ると、やはり世代によってピンク映画との距離が違うのだな、というのがよく分かる。吉行由美が女性のピンク映画人として監督と女優の間、女性視点と男性視点の間で揺れる心情を告白するのも興味深かった。以前ぼくが観た彼女のピンク映画には、そういった狭間で揺れているという痕跡がうかがえた。
映画関係の本などやイベント上映などで注目されることが多かった、四天王によるピンク・ヌーヴェルヴァーグなどはあえて取り上げられていないようだが、この映画はもっと網羅的に内容を膨らませて3〜4時間の尺になったとしても面白いと思った。もちろん、ロマンポルノも除外されているけれど、小沼勝を取り上げた中田秀夫による『サディスティック&マゾヒスティック』が面白かったように、こういった資料的なドキュメンタリーは十分に興味深いものになるだろう。ピンク映画史の蓄積は決してゴミなどではない。