防災もセカイ系?

彼女を守る51の方法―都会で地震が起こった日

彼女を守る51の方法―都会で地震が起こった日

出勤途中でもらった「Men's Digest」の書評欄で紹介されていた。JRの事故にしろ宮城の事故にしろ、被害者側に過失がなくても起こってしまうものに対して、ぼくたちが抵抗するならばこういった妄想を利用した手段なのかもしれない。「彼女以外はみんな敵」というわけではないけれど、そのように妄想して世界を生きるというのもある種の防衛本能のひとつであり、半ば自覚的に物語の主人公となるならそれはそれで強度ある生を生きられるだろう。ひどい現実を妄想で駆逐せよ! 妄想はドラッグとなりうるが、どうせ妄想に飽きれば現実もそれなりのものに見えてくるのかもしれない。なんとなく昨日見た『ドラッグストア・カウボーイ』の話に繋がってしまった。
単なる思いつきだが、もしかしてガス・ヴァン・サントという人はそういったことを熟知した作家なのではないか? 『エレファント』において、やがて訪れるであろう惨劇はみんな知っているわけで、そこに至るまでの学校の日常をあくまで疑似ドキュメンタリー・タッチ*1で撮ることがみずみずしく見えることは、どこかセカイ系に似た想像力が働いているからなのかもしれない。もちろん勝手な解釈だけど……。
でも、日常(現実)でも非日常(妄想)でもやがて終わりが来るということを漠然と意識する感性は、かつての「終わりなき日常」の後を継ぐ感性なのかもしれないと思える。細木数子みたいな人に「あんた死ぬわよ」と言われることで、逆に強度ある生を生きられるようになるという感性。そんなことをちょっと妄想してみた。

*1:阿部和重が以前こだわっていたような深い意味はなく、単に出演者のアドリブを重視した長回しの演出ぐらいの意味。