映画の原罪、生と死について(※ネタバレ必須!)

更新する際、リンク元を見ると『ミリオンダラー・ベイビー』より『オペレッタ狸御殿』の方が圧倒的に多い。ぼくが行ったシネコンではその逆で、『オペレッタ狸御殿』はガラガラで『ミリオンダラー・ベイビー』はかなり人が入っていた。そんなことはどうでもいいが……

ケロリーンと甲高い声で鳴く極楽蛙。間の抜けたその鳴き声は死者を蘇らせる。『オペレッタ狸御殿』の生と死はそのように描かれる。まるで午前中のNHK教育に見られるような書割の舞台や普通に描かれた絵を背景にしたりデジタル処理を施したり、それらが現実の風景と交じったり……とにかくなんでもありの荒唐無稽さも、鈴木清順の演出やその意図を汲んだ俳優たち、木村威夫の美術によってある種の抑制をもって映し出されることで、普通の劇場で上映されるような映画にはありえなさそうなリアリティをぎりぎりのところで成立させているのだろう。
ついつい荒唐無稽さばかりが記憶されがちではあるが、狸御殿の面々のミュージカルシーンなどほとんど禁欲的に撮影されており、長回しのロングショットでしっかり芝居を見せてくれる。一方で、がらさ城の安土桃山やびるぜん婆々のミュージカルシーンは歪みが強調される。だからといって、映画の中で普通の人間たちもおかしく描かれているわけで、いわばこの映画は複数の荒唐無稽をそれぞれ使い分けて重層的な荒唐無稽さを演出しているとも思える。
とにかく楽しい映画というのは確かではあるが、本気で観ようとすると狸に化かされるというより狂わされてしまう過激さを含んでいるとも思えるのである。正直、非常に書きづらい。今までの清順映画と同様ジャンプカットが効果的に使われていたりもする。チャン・ツィイーの豊かな表情と動きを見ることができる。由紀さおり演じるびるぜん婆々と薬師丸ひろ子演じるお萩の局のこの世のものとは思えないどこか宇宙的な戦い。様々な見所があるだろう。これに対して統覚をもって応じようとするのは困難なことだった。まあそれに、演出だけでなく、浦沢義雄の脚本の段階でどれほどナンセンスさが爆発していたのか気になるところだ。

恐ろしい映画だ。もちろん、愛する者を殺すことを指してそういっているのではない。この映画に出てくる者が存在していながら存在していないかのように、あるいは生と死の境界線を漂い、ともすれば行ったり来たりするかのように感じられることを指して恐ろしいのだ。
例えば、イーストウッドヒラリー・スワンクが運転席と助手席に乗り正面から、あるいは横からカメラが捉えるシーン。スワンク演じるマギーはこのシーンで父が愛犬を殺した話をイーストウッド演じるフランクに語り、後の伏線となっているわけだが、闇が2人を覆い、少し表情が現れると顔半分を影が覆い、再び闇に包まれ、また少し光が差す、というような明滅の中、時間と空間が非常に曖昧に感じられるだけでなく、そこに何かが映っているということが逆に奇跡的に感じられてくるほどだ。
このような感覚は夜のボクシングジムでひたすら練習するマギーをスクラップことモーガン・フリーマンが訪れるシーンで、首から上が暗闇に包まれているという演出からも伝わってくる。そして、同様の場面が反復される時、2度目はモーガン・フリーマンではなくイーストウッドとなっているのは物語上の成り行きとしての必然よりも、彼らが分身のように存在していることを示しているように思える。そういった意味で、つまり存在の曖昧さが、生と死の境界線としての映画を成り立たせていて、自分がその傍観者になって成り行きを見届けてしまうというのが恐ろしいのである。
映画は様々な予兆を孕んでいる。というより、語り手としてのスクラップがすでにすべてを知っているのだから当然である。彼はかつてのボクサーであり、フランクの友であり、ボクシングジムの番人であり、マギーの発見者でもあった。ボクシングによって片目の視力を失った彼は現役ではないにもかかわらず、様々な「きっかけ」をつくる仕掛け人として重要な役割を果たす。彼はマギーの最後の試合をテレビで眺める傍観者でありながら、元ボクサーとしてフランクやマギーとかかわり、映画の語り手にもなっているという、いわば3つの線を股にかけているような存在なのである。
一方、フランクはどうか。彼は娘との過去に強く囚われていて、また、スクラップを失明させたことへの負い目も抱えている。しかし、娘についてこの映画は一切触れていない。娘がいるのかどうか、あるいは妻がいたのかどうかも描かれない。そして、スクラップ自身は失明したことによって「死んだ」わけではない。フランクの罪の意識とは、何かによって負わされているのではなく、そこになければならないものなのである。イーストウッド映画を観てきた者にはそういった原罪が傷としてイーストウッドの身体に刻まれてきたことを思い出すだろう。
ミリオンダラー・ベイビー』ではそういった傷は可視化しない。分身としてのスクラップの失明した片目は原罪ではない。原作ではフランクは確か腕に傷を負っていた。にもかかわらず映画にはそれがない。そして次のエピソードは原作にはなかった。神父とキリスト教の教義をめぐる瑣末な問答などが空虚に繰り返され、神父が「娘に手紙は書いているのか?」という問いによって問答を退け、フランクが諦めるという場面だ。ゆっくりと開く扉の下に置かれているいくつかの封筒。実際に書かれた手紙は差出人に返却ですべて戻ってきており、膨大な量の手紙=言葉が収納の中に保管されている。また、フランクはイェーツの詩、ゲール語などの言葉にこだわっている。それはつまり三位一体、処女懐胎、神の裁き……といったキリスト教の教義を問うフランクの姿勢に通じている。だが、熱心な教会通いを続けるフランクはボクシングの魔にとりつかれた人間である。テレビで試合を見ながら身体が動いてしまう人間だ。原罪という言葉とボクシングという肉体のせめぎ合い。物語はその過酷なせめぎ合いを一層過酷にする。
ミリオンダラーを賭けた試合で輝いたマギーとフランクは互いに父娘の関係を投影しつつ最期には同化する。「モ・クシュラ」というリングネームの下に。肉体を殺して、彼女の意志を生かすこと。彼女を殺さないということは彼女の意志を殺すということ。彼女の意志とはボクシングの魔にとりつかれた意志だった。ボクシングの番人として、スクラップはフランクの犯そうとする罪を肯定するわけだが、その罪とは神=言葉の罪であり、ボクシングに憑かれた者たちにとってそれは常に背負わねばならない意識、原罪なのである。ボクシング=映画。そう考えると、原作にはないが脚本で加わった場面やエピソードがよく分かる。
最初に言ったような光と影のリズム、心地よい暗転のゆっくりしたリズム、ボクシングにおける呼吸法、ステップの取り方、マギーが相手をノックアウトし、フランクがリングに椅子をのせるリズム。まるでフィルムの運動と呼応しているかのようなそれらの素晴らしいリズム。そのリズム(リングに椅子をのせるリズム)が悲劇につながってしまうというのも、フィルムが一定のスピードで進行してしまうという映画の悲劇に他ならない。
また、デンジャーという登場人物は、頭が弱く、かつボクシングもまるっきりできない。フランクや他のボクサーたちは厄介者と思っていたが、スクラップは彼を可愛がっている。スクラップが目を離した隙に罠にはめられたデンジャーは打ちのめされ、精神的にもひどく打ちひしがれてジムを後にする。原作はここまで。だが、映画ではラスト、スクラップのもとにデンジャーが戻ってくる。スクラップは「ユーレイが入ってきた」と言う。傷を負って敗北した者がユーレイとして戻ってこられる場所とはやはりイーストウッドの映画でしかない。
プロモーターたちの金とは時にボクサーを殺してしまうことにつながる。すなわち、プロデューサーの金とは映画を殺してしまうことにつながる。ボクシングを殺さない場所として、番人スクラップの見張るジムとは、映画が生かされるイーストウッドのマルパソ・プロダクションのようなものなのかもしれない。
素晴らしさと恐ろしさに圧倒され、ただ流されるだけで本当は何も観てはいないのかもしれない。それを確認するためにも再び観なくてはならない。次はもうちょっと整理して書きたい。