tough ain't enough.

ミリオンダラー・ベイビー』の冒頭はボクシングシーンから始まる。モーガン・フリーマンのナレーションでボクシングの魔力が語られ、流血が時にファイターを目覚めさせるという場面を描く。そして、スタジアムの廊下でイーストウッドヒラリー・スワンクが最初の邂逅を果たし、「タフなだけじゃだめだ」という台詞が出てくるわけである。そして、ラストはまずジムの事務所でモーガン・フリーマンが「タフなだけじゃだめだ」という文字を目にして、その後、娘ケイティへの手紙が綴られているということは、ここで血縁が示されているということであり、入れ子構造が完成する。
昨夜、2度目の『ミリオンダラー・ベイビー』を見ながらいろいろと考えようとしたが、まだ映画に流されてしまい、対象に意識的であろうとすることは困難だった。その中で気になったことを書き留めておく。画面、空間設計はやはり行き届いていて、とりわけ後半においてイーストウッドモーガン・フリーマンの顔に落ちる影、あるいは背後に落ちる人物の影は恐ろしいほどに何かを物語っている。ほとんどは顔の右半分を影が覆っているのだが、いくつかの場面では左半分を覆う。鞄に道具を詰め込んだところ、モーガン・フリーマンイーストウッドのこれからしようとしていることを予期した最期のメッセージ、背後に落ちる影の物々しさ。決意を固めたイーストウッドが病院の前の車の中で静止した数秒のカット。この時、顔を覆う影は左半分だった。そして、事が終った時、闇の中からイーストウッドの後ろ姿を見つめるもはや人間とは思えないモーガン・フリーマン。ここでは影が人を覆うのではなく、闇から人が垣間見えるといった感じに近い。
「タフなだけじゃだめだ」という台詞は、あらゆる要素を考慮して考えようとするなら、その言葉そのものの意味の重要さよりも「○○なだけじゃだめだ」、つまり“ain't enough”の部分にこそ重みが宿っているのではないだろうか。イーストウッドのしかめっ面とはまさに“ain't enough”の反映であり、聖書の教えに飽き足りないのも“ain't enough”だ。まったく言うことをきかないヒラリー・スワンクは“ain't enough”の精神をたたき込まれつつも、結果的に自分を守れないのだが、動けなくなってからは苦痛のためというのもあるにせよまるでイーストウッドのしかめっ面が転移したかのように眉間に皴をよせ続ける。そして、“ain't enough”の精神は、原罪=聖痕のモチーフとしてイーストウッド映画を反復し続けている。そこでは抑制と欲望が奇妙に入り組んでいて、映画を痛めつけながら愛撫するかのように、捩れ、矛盾した、複雑な力を注ぎ込んでいるのいである。だからといって、イーストウッドの映画がそれほど奇異に映らないのは(よくよく見れば奇異に映る部分があるにせよ)、自分たちが根本的に捩れ、矛盾し、複雑な存在であるからに他ならない。
だが、表面的にはそうあることができないぼくたちは、ありのままにすべてを体現するイーストウッドという存在が神々しく見えるのだろう。だから、イーストウッドを神とする心情が蔓延するのだろうけど、そうすることは進んで理解を遠ざけることにつながってしまう。イーストウッドに神を見るのなら、自分の中にも見えなくてはならない。『ミリオンダラー・ベイビー』を始めイーストウッドの映画に打ち震えるような感動を覚えたならば、おそらくそれは自らの存在の底の声を聴いたからであり、そのかすかな声を聴き留めることこそ、イーストウッド及びイーストウッド映画への接近となるに違いない。
なぜかイーストウッドについて考えると映画を超えてしまう。あるいは映画そのものが超えてゆく。これこそ“ain't enough”ということなのかもしれない。