流れが淀む

せっかくバトンを回してくれているのになかなか書けなくて申し訳ない……。
内容的に悩んで書けないというわけじゃなくて、(職場ではなく)家でないと落ち着いて書けないと思って保留していたら、いろいろと身の回りの事情が重なってしまい、なかなかパソコンに向きあうことができなかったというだけのこと。あまりに先送りし過ぎると、ミュージカルバトンというもの自体がすでに下降しているような印象を受けたので、大雑把にでも書いておこう。あまりもったいぶるような内容でもない。
ところで、次々と身の回りにいろいろなことが起こるのはどういうわけか? ぼくは、単なる偶然ではなく、複雑な条件の結晶であるように思える。20代半ばになって未だ足下のおぼつかないぼくという人間、そして同世代の似たような境遇の人たちはどうなんだろう? 白石一文の『私という運命について』が自分自身に強く響いたのは、登場人物への感情移入だけでなく、時代、状況と人物の心理の相関関係のリアリティのためだった。
実際に、彼女が不治の病になったり、自分の母親から父親の浮気を聞かされたり、ぼく自身、今のどうしようもない仕事をやめようとしていた矢先に、フィクションのような事態が目の前に生じると、感傷や悲観になど浸っておれず、運命論的な考えと現実的な思考にとらわれ、いかに生きる(死ぬ)べきか……ということばかりが頭を占める。
先日の舞台の今後の展開、そしてこれから取り組もうとしている自主映画。今の状況になってこういったことに向き合おうとすると、自分がいかにぬるい意識でこれまで取り組んでいたのだなと自覚する。遊び要素もあれど、本気でやっていたつもりだったのだが、やはり人は運命を突き付けられないと、本気になどなれはしないのだろうか。しかし、自覚のきっかけがあったのだからこそ、ここから始めることも可能になった。これまでの24年間が無駄だったわけではない。一時、ギャンブルにはまっていたのも、時代と心理の相関関係における必然だったのかもしれない。
ふと思うことがある。選択肢というものについて。悲観に暮れる彼女に何らかの助言を求められたとき、いつも可能性(選択肢)は無数にある、と楽観的に答えてしまって、それが決まって逆効果なのだが、そのように答えるのが励ましでも何でもなく「逃げ」だということは内心分かっている。正しいことはひとつしかない。とりわけ自分自身のことでなければ、そのような決断をなかなか下せない。ハリウッド映画の悪しき撮影方法である、選択肢をできるだけ用意しておくというものと同種の責任回避。「生きるために死ぬ*1」という覚悟、責任、決断。そもそも今の仕事に耐えられないのは、どこにもそれが見当たらないし、求められてもいないからだ。先日の舞台には、特に中心となった制作側の人たちにはそれがあった。不治の病など忘れてしまったかのような生き方に、ぼくも賭けなければいけないと自然に鼓舞されたのだった。
人にどう思われようなどと今は気にしていられない。

*1:福本伸行『アカギ』より。