虚構との付きあい方

VIDEOGAME BATONが回ってきた際に考えたゲームには、自己を形成する上で影響を受けたものが多かった。いろんな人のゲームへの思い入れを拝見しても、多くの人が若い時にハマったということもあって何らかの影響を受けているというのが伝わってくる。ところで、ニュースサイトでの話題「有害ゲームと業界の自主規制」の問題である。
http://www.mainichi-msn.co.jp/today/news/20050627k0000m040039000c.html
またか……といういつもながらの問題だ。エロマンガにしろゲームにしろ、ろくに「思い入れ」を持たない連中が一部のソフトの部分的な表現に過剰に反応してこういったアクションを起こすということは、メディアの「有害性」から人を守るのではなく、メディアから自己形成にかかわる影響なり癒しなりを享受する可能性を摘み取る方向へとつながるだろう。ゲームというメディアを楽しむ「訓練」を経てない者たちが、ゲームの「有害性」を審査するという問題。
http://d.hatena.ne.jp/gotanda6/20050625/game
↑でgotanda6さんも軽く触れていたけど、アメリカの軍事シミュレーションとしてのヴィデオゲームということを考える場合、映画というメディアと軍事テクノロジーの関係をふと思い出したりする。他のメディアについて詳しくは知らないけど、知っている限りのメディアでちょっと考えると、アメリカという国がどのようなメディアであれ、軍事テクノロジー&軍事シミュレーションなどに利用しようとしないほうがありそうもないことのように思える。なのに、ヴィデオゲーム、しかも一部の(何らかの意図の下につくられたかもしれない)偏った内容のゲームの、さらにその部分的な表現を取り上げて、ゲーム叩きが行なわれてしまう。
そういえば、ガス・ヴァン・サントの『エレファント』の中で登場人物がプレイしていたゲームは、その後の場面で彼らが実際に人を銃で撃ち殺す「狩り」をやったこととの文脈で「有害」に見えそうだが、そのゲームの場面を見る限りはとてつもなく貧しく、ゲームとして面白いと思えなかった。彼らが面白いと思ったかどうか分からないけど、シミュレーションとしてやるのに面白いかどうかは関係ない。いわゆる軍事シミュレーションとしてのゲームだって、その目的の下につくられているのだから、そういったゲームを「有害」だというのはおかしい、というより批判として無効である。
また、宮台真司がよく使っていたクラッパーの「限定効果説」ロジック(→http://www.miyadai.com/texts/014.phpなどを参照)をふまえるまでもなく、メディアとは媒介するものなのだから、無媒介的にメディアに接したり、勝手な因果関係をでっちあげてメディアと人間(倫理)とをつなげてしまったり、よく知りもせず感情的に批判したりすることは間違っている。本当に有害なのはそういったことだ。
前にも書いたことがあるけど、「ゲーム批評」という雑誌が「有形技術」と「無形技術」の対比によるゲームについての論考を掲載したことがあった。前者は視覚的な技術であり、完成度の高いグラフィックやエフェクトによってよりリアルなゲームを目指すアメリカに顕著な技術であり、後者は視覚上に表れにくい、システムや操作性、ゲームバランスなどによってゲーム性を高めようとする任天堂などに顕著な技術である。
それぞれの技術志向がプレイヤーにどんな影響を及ぼすか考えることも必要なはず。「有形技術」は作品として完成度が高くとも、ゲームプレイヤーの存在をあまり重視していないように思う。ある種の訓練を経ずに誰もがプレイできるのかもしれないが、ゲームのメディア性が軽んじられているように思える。一方「無形技術」はプレイヤーを内包することを前提として発揮されるものだ。小さい頃から任天堂などをはじめとするゲームをやっていれば全く違和感がないにしても、いきなり大人になってやってみると抵抗があるのは「無形技術」志向のゲームがそれなりに「訓練」を必要とするからだろう。その中にはギャルゲーやエロゲーの視点の問題も含まれるだろう。
話を「業界の自主規制」に戻せば、次世代機が登場した初期の頃に比べるとPSなんかはだんだん過激なものが出てきたように感じないでもないし、GCで「バイオハザード」の新作が出るとは思わなかったけれど、それもごく一部だし、これまでも緩いレーティングは存在していた。問題はPSなどのシェアが拡大することでハードの多様性が薄れたことかもしれない。ならば、あまりに巨額になりすぎたゲームの製作費と膨大な開発時間も見直すべきなのかもしれない。VIDEOGAME BATONのエントリで書いたPCエンジンのゲームが発売されていた頃は、ハッカーインターナショナルという会社の18禁ゲームも細々と発売されており、「ストリップファイター」や「ハイレグファンタジー」など人を食ったゲームがあったものだが、そういうソフトはある程度の情熱をもって探さないと見つからないようになっていて、中古ショップや通販などで見つけた者のみが18禁の壁を越えることができたのである。生半可なレーティングなどやっても、買おうとする者にとってはたいした敷居ではない。
とにかく、ゲームと犯罪に直接の因果関係はない。もし「ある」というなら、あらゆるメディアが犯罪とかかわっていると考えうる。すべては権力者の恣意的な判断に委ねられる。それはほとんど「ゲーム脳」じゃないか。常に犯罪の原因を探していると、あらゆるものが潜在的な犯罪の温床となる。ゲームをせずにゲームを批判する者が「ゲーム脳」になる……というのが「ゲーム脳の恐怖」なのかもしれない。もちろん、「ゲーム」の部分にはあらゆるメディアが代入できる。
ところで、ちょっと思いついた話をしよう。喜国雅彦『日本一の男の魂』のどの巻だったか忘れたけど、男子高校生がクラスの女の子を妄想してオナニーする話があった。その後、彼はクラス写真を持ちだしてきて女の子のレベルを落としながら自分のオナニー力の限界を試していくのだが、ブサイクで抜いた後、男に挑戦して、最後は自分自身をズリネタにオナニーする、という話だったと思う。好きな女子のあられもない姿というのは青春期のオナニーネタとして「因果関係」があるように思える。ある程度ランクが下がっても妄想の中でオナニーの「因果関係」は成立する。そこからが分かれる。ブサイクは敷居が高い。まして男や自分自身など。そう思うかもしれないが、ある種の訓練によれば、この漫画のように無理矢理オナニーの「因果関係」を成立させることは可能なのだ。ぼくはここにメディアの媒介性というもののヒントを見る。
ゲームにおいても、メディアの媒介性というものを考えてみる時がきているのだ。