就職力ランキング2005(「Yomiuri Weekly」より)

どういうものかというと……

リクルート ワークス研究所の「採用ブランド調査2004」で、大学生から就職志望企業100位までに選ばれた101社を抽出。1位の「トヨタ自動車」500票、2位の「電通」449票から、96位の「三菱地所」など6社の77票まで、人気に違いがあることを勘案し、トヨタ自動車に1人就職するごとに500点、電通なら449点、三菱地所なら77点というよいうにスコアを与える。
(中略)総スコアを、就職を届け出た学生数で割ることで同条件に近づけ、その数値を「就職力」と名づけたのである。

以下が20位までの格付け(カッコ内は就職力/*は大学院含む)

  1. 一橋(79.20)
  2. 慶応義塾(65.48)*
  3. 東京工業(64.76)*
  4. 東京(61.34)*
  5. 京都(54.91)*
  6. 上智(53.75)*
  7. 国際基督(45.70)
  8. 早稲田(44.87)*
  9. 学習院(44.09)*
  10. 名古屋(41.01)*
  11. 九州(40.13)*
  12. 東京外国語(36.70)*
  13. 電気通信(35.62)*
  14. 同志社(34.30)*
  15. 立教(33.15)*
  16. 筑波(31.66)
  17. 関西学院(30.97)
  18. 津田塾(30.11)
  19. 成蹊(29.98)*
  20. 北海道(29.97)*

上位6大学はほとんど不動。国立大学の相対的な低迷。目立つところでは、入学合格ラインの平均偏差値の低い電気通信が奮闘しているというのがある。この辺りの情報をふまえれば、望ましい就職を目的とした大学選びがかなり有効になってくるかもしれない。これ↓を参照のこと。
http://www.megrokai.or.jp/megurokai/kaihou/kiji/kiji153/rankingu.html
今の状況をふまえれば当然だけど、2003年と比べると就職率自体、全般的にかなり低迷している。また「Yomiuri Weekly」の記事にある通り、大学に就職に関する状況を届け出しない人たちも多数存在する。ぼくもそのひとりだ。就職活動も簡単な情報収集もやっていない。でも、露文専修にいた限りでは、そういった怠慢がそんなに浮いてはいなかった。先日も同級生がロシア留学から帰ってくるとかで飲み会に誘われた。今週末にあるらしく、クラスにそれほど馴染んでいたわけではないが、みんなの状況を聞いてみたい気はする。
辞職の話を会社に伝えてから働く気が失せて(今までもほとんど存在しなかったけど)しまって、この3ヶ月間遅刻したことがなかったのに、ここ数日は連日の寝坊である。定時に出社したからといって、ずっとネットサーフィンをやるだけなのだが……。そんな状況で、もちろん次の食いぶちを考えないわけではないけど、だからといって働くことについてあれこれ人と相談したりするのは好きじゃない。だから、大学時代は誰にも就職の相談をもちかけたことがなかった。反対にそういった話をもちかけられたり、飲み会で一方的に語られたりすることはあり、本心では本当にどうでもいいと思いながら適当に答えていたわけだが、どっちみちぼくのアドバイスなど参考にならないので同じことだ。どうせ就職についての不安をあれこれ思い巡らせ、悩んだりするのはほとんど意味がないし、香山リカの『就職がこわい』にあったみたいに、働くこと自体に何らかのためらいを抱えていたりすると、どんなに自己を鼓舞し、啓発されたりしようとも、就職に関してどこかで矛盾が露呈し、精神的な失調を来してしまうのだ。思考停止の方がよっぽど有効だ。
http://deztec.jp/design/05/06/25_job.html
これが「残酷な生き方」になるかどうかはともかく、普通に大学を出て人材派遣会社やIT企業みたいなところで責任ばかりが重くて報われない仕事に毎日が費やされる生き方とてんびんにかける……そう考えることがストレスとなり、結局仕事に踏み出せずニート的な生き方を延長させてしまう。もっとも、前者の自覚的な選択が、年収300万の幸福な生き方になるかどうかも、実際は職場をめぐる状況に委ねられ、フタを開けてみると苛酷で非人間的な状況が待っているかもしれない。
先日のid:hibikyさんの工場話を思い出した。例えば、高卒でどこかの工場に就職する人がいたとして、大卒でその「残酷な生き方」を選択した人が同じ工場で働くとする。暇な時に話すことといえば、スポーツ新聞的な話題ばかり。それを「豊か」だと感じられるかどうか。しかし、高卒でも優秀な人はいる。仕事で頭角を現すかそれ以外のことで持ち味が発揮されるか別として。そして、大卒でもバカみたいに「貧しい」人はいる。相対的にどちらが人間関係において貧しいか言えるかもしれないけど、同じことがネット上にも当てはまるような気がする。
つながりばかりが過剰に意識されると貧しい関係しか築けないということが考えられる。人間関係を固定化することで無意識の呪縛が生まれ、あれも書けないこれも書けないとストレスが生まれ、定期的に交流の持続を確認しなければならなくなる。つながりを広げているようで、実際は不自由さばかりが募っていく。ネットの中毒性にはそういうものがあるだろう。
はてな自動トラックバックの話題を考えるにつけて、多くのはてなユーザーの中におそらく漠然とした「豊かさ」への志向があるのだと思う。ぼくもそれに共感できる。先日某SNSのオフ会に参加して窮屈さを感じたのは、周囲の人に比べてぼくがそういうイベントに慣れていないこともあったけど、SNSそのものの性質もからんでいるように感じた。やっぱりSNSはすでに持続的な交流をしている人かこれからも交流していきたい人でないと負担に感じられる。総務省SNS推進に賛成か反対か別として、ネットにかかわる「技術」は身につけておかないといけないな、といつもながらに考えさせられた。
中身が何であれ、何かが蓄積されるということは重要で、日記でもブログでも蓄積はそれ自体で意味のあることだと思う。人間関係でも仕事でもそうだ。関係が蓄積されるとその分、相手に踏み込めたり踏み込まれたりして、意外なことが起こったりする。けれど、今までバイトしてきたり働いてきたりいろんな人とかかわってきたりして、何らかの蓄積のない不毛な反復が繰り返されることもあるのだと実感できた。別に特定の分野だけに価値があるとか意味があるとか考えているわけではない。ぼくは仕事が嫌いだし、仕事の悩みの話とかも嫌いだけど、それは今までの経験上、そういった話をする人が不毛な話を堂々めぐりさせる場合が多く、会話したり相談にのったりすることで何かが蓄積されている感じがしないからだった。
脈略ないかもしれないが、就職力ランキングを見て、なんとなくそういうことを考えさせられた。