妄想はいかにして可能か?
- 作者: 浦賀和宏
- 出版社/メーカー: 幻冬舎
- 発売日: 2003/10/01
- メディア: 文庫
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あまりに貧しい関係性。この小説の登場人物たちの貧しさは、解離性同一性障害やトラウマという符丁によってのみもたらされているわけではない。明らかに日常的な描写が少なすぎる。人間関係の範囲が狭いばかりか、少ない関係の中で心を通わすことさえままならない。前半の日常的な場面の描写でさえ、なぜか荒廃感が伝わってくる。回想や非日常的なエピソードなどによる物語の駆動がない。フラットな感触。劇的な場面は、人格の入れ替わりによってほぼ代理されている。つまり、妄想的ではない。
この本を読む前、恋人が殺されたことを契機に日常が狂い始める……そのようなあらすじが表紙に書かれていて、舞城王太郎みたいな妄想的な物語か、あるいは佐藤正午みたいな叙情的な物語を想像した。しかし、実際に読み始めると温度の低さは冒頭から一貫している。それでいて何か意識をとらえられてしまうものも含まれている。一体それは何なのだろうか? 佐藤友哉や西尾維新ならよく分かる。完璧に解読できるという意味ではなくて、やりたいこととか方向性が分かるということだ。しかし、同じようにほぼ同世代だというのに、浦賀和宏は分かりにくい。もっともこの本が始めてなのだが……。いや、それでも何か惹かれる感触はある。それがうまくいえない。
実際、今度やる自主映画で似たようなことをやろうと考えていた。もちろん、解離性同一性障害やトラウマといった符丁ではなくて、その表現しづらい曖昧な方向性の部分について、そういうことを考えている。うまく言葉にできないが、映像でそんな「淀み」を表現できないだろうかと模索中なのだ。そういったことをこの数ヶ月、仕事をやめようという考えと共に頭にぼんやり浮かべ続けていた。そうすると決まって自分の田舎の風景が浮かんでくる。そういえば高橋洋は『映画の魔』の中で誰かの言葉を用いて「作家は自分が生まれ育った風景しか発想できない」ということを書いていたが、人間は原初的な風景に無意識にとらわれているのかもしれない。すなわち『略称・連続射殺魔』の風景論である。そして、課題はそんな限定的な現実の中で妄想がいかにして可能か、と考えることなのである。