自己映画の意識

最近、夜勤の肉体労働を始めてしまったせいで、寝不足と疲労から集中力が低下してしまい、本を読んでも映画を観ても生理的な反応しかできなくなりつつある。それでもリフレッシュになるから労働以外のことをしたいのだが、そのために睡眠時間が削られてしまい、さらに集中力が低下してしまうという悪循環に陥ることになる。
そういう中で『TAKESHIS'』を観ていろいろと思うことはあった。難解だとか言われていることもあるけど、実際はある面ではとても分かりやすくできている映画だった。ここ最近の北野武映画からすると確かにストーリーの脈略のなさにとまどう面もあるが、しばらく観ていると、この映画が明快な意識に貫かれていることが窺える。そのため後半からは次にどのような展開が起こるのかほとんど予想できてしまった。たとえばオーディション→ラーメン屋のくだりとか、沖縄と思われる海辺での銃撃戦のくだりとか。当然、それは北野武という人の意識なのだろう。
また、過去の北野武映画の記憶を思い起こさせるようなショットも多く、意識の問題と併せても、『TAKESHIS'』はまさに「自己映画」として結実していると言えるだろう。面白いのは、ある面で被害妄想的かつ主観的な自己意識と、それを突き放して見つめるかのような脱自己意識が同じレベルで混在しているように見えることだ。そのせいか、とても明快に描写されている登場人物の存在感が希薄に感じられた。例外は内山信二松村邦洋のデブ2人ぐらいだった。
加えて、テレビ業界といういびつなシステムを話の中心としていることもあるだろう。映画のリアリズムとテレビの(コント的な)リアリズムの齟齬が生み出す違和感。両者を横断する北野武の意識は、それをどちらかに規定するわけでもなく、齟齬をそのままに見せつける。
そして、京野ことみの揺れる裸体が乳首をいじられる小森未来の裸体と二重映しになり、さらに砂浜で突然駆け出して新体操をし始める京野ことみはロングショットにおいて間違いなく小森未来がやっているのだろうが、そういった人物起用法に見られるイメージの「連想」。齟齬と連想。これがこの映画を貫くものであり、北野武の意識であると思う。そういえば忘れるところだった。「ここがヘンだよ日本人」のゾマホンの起用も齟齬と連想の最もたるものだった。しかし、前述したように、その連想がほとんど予想できてしまうのも確かである。つまり、それぐらいの連想であるならば、それほどの齟齬も生まないことになってしまう。だから、言ってしまえばあまり面白くないのだ。
ついこの前の「たけしの誰でもピカソ」でお笑い特集をやっていた時、予期せぬ肉体芸を見せつける若手芸人たちについてたけしが感想を述べていた。自分では考えつかないけど、これを笑えるということはまだ自分の感覚を信じられるということ、みたいなコメントだった。それと映画をつなげてしまうのは安直かもしれないけど、ぼくは『TAKESHIS'』という映画を、そのコメントを象徴するような映画だなと思った。