虚構の終わり

池袋新文芸座にて。
前日に観ていた「しりとり竜王戦」のせいか、野村宏伸おぎやはぎの矢作に見えて仕方がない。角川映画らしい虚構空間も手伝って、思わず笑ってしまいそうな危うさを呈しているのだが、ぎりぎりなところで成立しているようにも思える。冒頭のシーンなど、荒井晴彦らしい男女の出会いが描かれているのに、例えばロマンポルノで描かれるような密室的な男女の虚構空間のようにならないのはなぜだろう? いろいろな要素が考えられるが、やはり河合美智子の演じる女、だろう。
過去の自分を他人と偽って野村宏伸に探させる彼女の現在は、その存在自体が危うい。周囲の人物から明かされてゆく奔放で魅惑的な過去の方がよほど存在感を際立たせている。その意味で、彼女が彫刻のモデルをやっているということも理解できる。映画全体のトーンも、彼女の存在の危うさに呼応するように、暗さと明るさの狭間で進行している。
ぎりぎりのところで成立している虚構空間。それを体現する虚構的な女。やはりこれは時代のなせる技か? この時代のこの種の映画は、ぼくが小さい頃の日本映画のイメージであり、そのイメージこそ日本映画を遠ざけていた原因であった。今でこそ映画であれば何でも観てしまうが、実を言うとこの種の映画の「面白さ」はよく分からないのだった。