黄泉の映画

tido2006-03-27

恵比寿に映画を観に行くと無駄に金を使ってしまっていけない。映画を待っている間に写真美術館に行くならまだしも、たまたま休館日だったこともあり、その辺のカフェなどに行くとコーヒー一杯に600円や700円ほど請求され、ついでにケーキなどを頼んでしまってあっという間に1000円超えてしまう。ガーデンプレイス内のマックで済ませればよいのかもしれないが、あの空間の磁場がそうはさせてくれない。もっとも、マックに限れば子供だらけでうるさいし、ぼくはファーストフードの中でマックが嫌いなのだ。
サマリア』以来のキム・ギドク映画。『うつせみ』は寡黙な映画である。ジェヒの演じる青年はバイクで家々のドアにチラシを貼付け、あとからチラシの有無を見て回ることで留守宅を探し、それを見つけたら工具で鍵を開けて家宅侵入する。淡々とした作業である。家に入って行うのは単なる日常生活である。洗濯し、飯を作って食べ、テレビを観て、寝る。そして、記念写真を撮り、壊れた家電製品を工具で直す。当たり前のようにそれらをやっていく。一晩過ごすと、また留守宅探しから始める。
彼はこれまた寡黙なイ・スンヨン演じる女性ソナと出会う。留守宅と思って侵入した家に彼女はいたのだった。顔に痣。夫の暴力であることはそれまでの展開で観客に示唆されている。2人の間に言葉はない。しかし、一見理解不能な男の心遣いがその場にあった緊張を緩めている様子が伝わってくる。良い演出である。だが、そこに暴力夫が帰って来る。波乱の予感。夫に荒々しく詰め寄られる女。その時、ガラス越しの庭で青年は3番アイアンでゴルフボールを打っている。またもや不可解な行動。それが暴力夫を引きつけ、近寄って来ると、青年はゴルフボールを夫に打ちつける。青年と女は一緒に旅立つ。
キム・ギドクの映画で反復される執拗な暴力はその被害者に強く痕跡を残す。彼らは日常から離れてゆく。一方、暴力を振るう者も日常性を失ってゆく。そして、映画自体も日常から離脱してゆく。男と女の家宅侵入の旅はユートピア的だ。淡々と寡黙な時間を過ごす。やっていることは家事・炊事という日常的なことなのだが、他人の家で、しかも夫のある女を連れてやっているということが非日常的である。哀しみを背負っていた女はしだいに男に似てくる。彼女も淡々と洗濯し、飯を作り、記念写真を撮るようになるのである。この静かなシーンの連なりはユーモラスであり、暖かくもある。だいたいどの家でも青年はCDをかけるのだが、流れる音楽が似ている(一緒?)のも、日常性と非日常性の狭間、黄泉と言ってみたくなる時空間をよく表しているように思う。
やがて黄泉を終わらせるのは何の脈略もなく唐突に出会う死であった。確かに予兆は示されていた。青年の放ったゴルフボールが無関係な女性に直撃してしまうのだ。ゴルフボールは飛ばないように加工されていたので、それは意図せざる事故であったが、この映画で唯一、寡黙な青年を激情に陥れる場面である。不条理や事故、不可解な行動。これらがきっかけとなってゆくのは、この映画で一貫としている。そのためか不自然に見えず、いつの間にか流れを受け入れている自分に気づく。後半、映画はさらに不可解な方向へ。しかし、ここからがすばらしい。
その感触は説明してもおそらく伝わりにくいだろう。例えば、青年が刑務所送りになった後、女がひとりでかつて青年と訪れた家に赴く場面がある。家は空いている。庭に僧侶のような男がいる。どうやら寺だったようだ。金魚鉢を眺めているその男が訪れて来た女に気づく。女は幽霊のようである。男の呼びかけに答えず、女はそのまま庭を通り過ぎ、縁側から家にあがり、目の前のソファーで眠り出す。不思議そうに眺めていた男は女が安らかに眠り始めると微笑みを浮かべ、再び金魚鉢に注意を向ける。しばらくして僧侶の妻が帰って来る。妻が寝ている女に気づく。声をかけに行こうとする妻をそっと止めて、そっとしておくように男が言う。時間経過。庭の木々に水をやる妻。その横にいる男。その中をやがて目覚めた女が頭を下げて通り過ぎてゆく。このような場面を美しく、暖かく、ユーモラスに見せる演出はキム・ギドクならではだろう。刑務所の独房の場面。ラストの再会した男と女、そして暴力夫の不思議な場面。傑作である。
さて、続いて『メルキアデス・エストラーダの3度の埋葬』だが、印象としては脚本のギジェルモ・アリアガによるところが大きい。最初は特にそう感じた。時系列をいじった巧妙な物語は『21グラム』などを彷彿とさせる。個人的にそういった作風はあまり好きではなかったので、たぶんこうなるんだろうと展開を予想しつつ冷めて観ていたのだが、後半から画面に釘付けになってしまった。ちなみに後半はほぼ一直線の時系列である。
トミー・リー・ジョーンズ演じるカウボーイが仲間たちとくつろいでいるところにひとりのカウボーイがやって来る。メキシコ人である。不穏な空気が一瞬流れるが、すぐにトミー・リー・ジョーンズスペイン語で彼に話しかける。彼は不法入国者だった。これが2人の出会いであり、彼らは友情を育む。映画は彼、メルキアデス・エストラーダの死体が発見されるところから始まる。死体はコヨーテに食われかけていた。メルキアデスが不運な死に遭う以前の2人の友情を描く一方、意図せざる殺人をしてしまった国境警備隊の若者の生活が描かれる。彼はテキサスの田舎町に妻とやってきたばかりである。バリー・ペッパー演じるその男はいかにもアメリカ的な男である。不法入国のメキシコ人たちを容赦ない暴力で取り締まりながらも、ちょっとした銃声に脅えてしまう。白目を剥きながらキッチンで妻を犯すあたりなど、やりすぎなほどだがバリー・ペッパーの「熱演」が光る。これが映画の後半に生きてくるわけだ。
後半はトミー・リー・ジョーンズバリー・ペッパー、メルキアデスの死体、3人による埋葬への旅である。このあたりのリズムはすばらしい。途中、盲目の老人が住む小屋に立ち寄る場面など最高である。常にユーモアを失わなず、それでいて力強く沈痛な旅である。それぞれの男が感傷的になる場面はある。しかし、感傷に流れない。その辺りの呼吸が絶妙だ。メリッサ・レオの演じるカフェのウェイトレスが良い働きをしている。セックス好きの熟女である彼女の存在は意外に大きい。
国境はひとつのテーマになっている。テキサスからメキシコへ。メキシコからアメリカへ不法入国する者。そして埋葬のため、アメリカからメキシコへ渡る者。彼らは実のところあまり変わらない。それが描かれる。小屋の老人の両義的な存在も然り。バリー・ペッパー演じる男が鼻を折ったヴァネッサ・バウチェ*1演じるメキシコの女によって治療され、翌朝その足に熱いコーヒーを浴びせられるといった関係の逆転は、他の人物においても描かれる。つまり、アメリカ人であろうとメキシコ人であろうと、あるいは取り締まる者であろうと逃亡する者であろうと、その関係は容易に逆転するものであり、そこに決定的に意味などない、ということである。
そして、その関係は相手が死者であっても揺るがない。ひどい姿になっても最後まではっきり画面に登場し続けるメルキアデスの死体はそれを物語る。傷を負いながらまるでメルキアデスのようにゾンビ化してゆくバリー・ペッパー。寡黙な旅を淡々と続けるイーストウッド的幽霊のようなトミー・リー・ジョーンズ。死者と生者という分別はもはや無効である。友情、信頼、関係。それらがそこにあるというのは確かである。それだけでいい。それが『メルキアデス・エストラーダの3度の埋葬』という映画だろう。

*1:アモーレス・ペロス』や『マスク・オブ・ゾロ』にも出演している。