最後の燃料で

閑散とした保養所のような場所、森の中、川のほとり……誰だか判然としないぐらいの距離を保ちながらカメラはその人物をとらえている。男のつぶやきと木々や川の流れの音を耳にしつつ、その景色というか距離を見つめるだけで、侵犯し難いものが男とそれを見つめる自分の間にあるように思えてくる。一定の距離をおいて、不安定ながらも行き先が決まっているかのような歩行を見つめることで見えてくるものがある。いや、それによってしか見えてこないものがあるに違いない。
映画でそれを撮るということは冒険であったかもしれないが、それをものともしない作り手たちの切実な意志が反映されているのだろう。「最後の2日間」を徹底して見つめることで、本来は起こりそうもなく、見ることもできないであろう最後の最後の瞬間が、まるでそうあったに違いないと思わせる描写になりえたのだ。誰も知り得ない孤独を知ることはできないが、描かれた決定的な距離を見つめることで、そこにあった孤独の存在を共有することは可能なのだ。『ラストデイズ』を観てそう思った。
一方、期待していた『立喰師列伝』は個人的に不発だった。スーパーライヴメーションは確かにわくわくさせてくれた。ハニメーションより視覚的にも面白い。余談ではあるが『バイオハザード4』とかでハマった射撃を思い出した。良い意味でのチープさ、つまり、押井守がよく言う「劣化」のうまいやり方だと思われた。それがうまく機能している前半、60年安保=兵藤まこ扮するケツネコロッケのお銀を経て70年代内ゲバ鈴木敏夫扮する冷やしタヌキの政の殴殺事件が起こるまで、押井守なりの総括が饒舌に展開されてゆく様はなかなか楽しめた。「SPA!」のインタビューにもあったが、吉本隆明の詩をあのように感傷的に使うやり方も、同時代の任侠時代劇のような作りと共に娯楽的効果を最大限に発揮していた。
しかし、その後、飽食の時代のチェーン店化×立食師の戦争を経て、寺内克也扮するフランクフルトの辰(声は山寺宏一がトグサ風にやっている)の自己言及的な脳内迷宮になってゆくと共に語りの濃度が薄れていくようだった。はっきり言ってどうでもよくなった。実際、どうでもいいことをあえてやってはいるのだろうが、スーパーライヴメーションもあまり活用されず、まるで『かまいたちの夜』などのサウンドノベルゲームをやっているかのような印象で、むしろそういったゲームに比べて退屈きわまりないほどだった。もっと押井守の「偽史」が饒舌に展開されるものかと思っていたが、どうやらそれは前半で尽きたようである。語り尽くした後はどうでもいいことをやるしかない。それならば蘊蓄に満ちた『ミニパト』の話(押井守が脚本をやっていた)みたいなものの方が面白い。記憶が定かではないが、押井守クリス・マルケルの『ラ・ジュテ』みたいなものを卒業制作でやったんだっけ? だとしたら原点回帰でもある。違うかもしれない。
お気楽にやった娯楽作にそう目くじらを立てる必要はないかもしれないし、これを面白いと思う人はそれなりにいろいろと見所を発見しているに違いないだろう。しかし、ぼくとしては後半は特に、川井憲次の音楽でもなければけっこうきつかったぐらいだ。押井守の次回作に期待しよう。