関係、場所、空気

ベケットと「いじめ」 (白水uブックス)

ベケットと「いじめ」 (白水uブックス)

新しい視点というわけではないが、徹底していわゆる「ごっこ」をドラマツルギーの問題として優れた考察をしている。
要するに、近代と現代ではドラマツルギーの構造がまったく違っていて、近代は独立した「個」が状況に働きかけることで生まれるものだったが、現代ではおのおのの固まりの中で未分化な状態にあるそれぞれの「孤」が互いに関係するというものだということ。ちなみに本書は87年に出版されたものを新書化したものであり、80年代の演劇状況を語ったものである。しかし、その内容は今でも有効だと思われる。
近代から現代へ。人間性の描写から関係性の描写へ。そのような過程において不条理劇が流行する。その極北としてベケットの方法論的な演劇があった。ベケットは古くからある演劇の雑多な部分は捨象し、方法論化できる部分を徹底した。キリスト教の大きな影響下にある西洋的な主体=人間性を捨象し、まるで点と点がどういった結びつきが可能かという、いわば現代の「孤」の関係性について実験したのだ。やがてそうなっていくだろう……と。しかし、そうした徹底が行き着く先には演劇の面白さはない。方法論化できない雑多なものもまた無視できない。その狭間で演劇はいかに可能か? そういう内容の本である。
もちろん、これは演劇だけの問題ではない。ベケットによる方法論の徹底の先にわずかに見えた、言葉の意味を取り去った後に現れるだろう存在感の手触りとでも言えるものは、一部の映画においても追求されたものだし、一見矛盾でしかないが、言葉のみで構成されている小説においても似たようなものが追求された。関係性のドラマというのはそれぞれの人間が未分化な状況にあるから、言葉を発さなければ存在しないのと同じなるわけである。しかし、それは相手を対象化できないということでもあり、主張をぶつけるということも不可能であり、発せられるのは無意味な、あるいは自己言及的な言葉でしかない。そのようなドラマの不可能性とでも言える状況でいかにドラマを生むか、あるいはドラマを放棄するか。これはけっこういろいろなジャンルにおいて言える問題じゃないかと思う。
ベケットの先にあるものがあまりに不毛な砂漠でしかないからといって、ベケットをなかったことにしてそれまでのドラマツルギーを語るというのも違う。ベケットが追求したものをふまえ、いかに新しいドラマツルギーを成立させるか。韓流ドラマや映画、あるいはそれをも含む感動系全般、そして動物化したオタクたち向けて供給され続けている予定調和的なコンテンツ。それらばかりが商業的にもてはやされる状況では難しい試みである。しかしだからこそ、無視してはいけない問題でもある。そういった試みにこそ、もっと目を向けなければならないと思う。