聖なる地獄旅

  • 瞳を見ればわかる(監督/脚本:ヴァリア・サンテッラ、製作:ナンニ・モレッティ、アンジェロ・バルバガッロ、出演:ステファニア・サンドレッリ、テレーザ・サポナンジェロetc)
  • 聖なる心(監督/原案/脚本:フェルザン・オズペテク、出演:バルボラ・ボブローヴァ、マッシモ・ポッジョetc)

有楽町朝日ホールのイタリア映画祭にて。他短編2本も観た。
『瞳を見ればわかる』は女性監督による女性の物語である。病気で喉を悪くした母マルゲリータ。映画は彼女の退院から始まる。マルゲリータは歌手であり、女である。その娘キアラは母子家庭である。喘息持ちの幼い娘ルチア。キアラは女である母を理解しない。常にピリピリしている彼女に幼い娘は喘息の発作を頻発させる。喘息は心因性のものであることを示唆するが、言語療法士であるキアラはそれを否定している。
そんな親子3代の女の揺れる心情を綴った映画は……あまり好みではなかった。テンポの良い編集でよどみなく語られているが、その語られる内容が退屈だった。この女たち3人があまりにもわがままで、そんな些細なことをあえて等身大に撮っているのだろうが、興味より不満ばかりが募る内容だった。こういう話はやっぱり現代アメリカ映画の方がうまいということを再確認させられた。
そして『聖なる心』。フェルザン・オズペテクは過去2回イタリア映画祭で上映され、その2作(『無邪気な妖精たち』『向かいの窓』*1)ともに素晴らしかった。本作はさらに素晴らしい。
(ここから1段落分はあらすじ……なのであらすじを知りたくなければ次の段落から読んでください)冒頭、夜。憂えた女の顔のアップ。裕福な家庭と思われる高層マンションの一室のような場所で、紳士と妻とお手伝いさん。お手伝いさんを帰した後、愛を確かめ合う夫婦は穏やかな表情を浮かべながら、バルコニーの縁に立ち、躊躇なく夜空に飛び降りる。その訃報は、巨大企業の若き女社長イレーネの盛大な表彰式に飛び込んで来る。自殺した夫婦は女の友人であったが、彼らの企業を買収した矢先でもあり、そういった文脈では隠蔽すべきスキャンダルであった。女社長の叔母はやり手の部下、というより実質上叔母はイレーネのパートナーかそれ以上の存在である。友人の自殺の後もサイボーグのように働くイレーネ。そんな中で死んだ母の屋敷を再開発することにする。イレーネの母は狂気の中で死んだということにされていて、イレーネ自身にも母の記憶がない。下見で訪れた母の部屋、その壁にはびっしりと意味不明の言葉が書き綴られていた。その帰り道、路上で少女が数人に取り囲まれているトラブルを見かける。イレーネの運転手が割って入り、少女はイレーネのもとへ駆け寄って来る。ベニーと名乗る少女はすぐに去って行く。イレーネは財布を落としたことに気づき、屋敷に戻る。すると運転手がさきほどのベニーを連れて来る。財布は少女が盗んでいた。芝居だったのだ。しかし、仕事に邁進していたイレーネは風変わりな少女ベニーのペースに引きずられながらも、彼女との時間を進んで楽しんでいるようである。ベニーを知るうちに、彼女の盗みは生存のためであり人のためであることを知り、それを咎められなくなる。今度はあなたが私を見つける番よ、と言って去って行くベニー。イレーネが次に彼女を見つけたのは病院だった。ベニーは車にはねられ即死していた。茫然自失の中、イレーネは自殺した夫婦に励まされる。ベニーと交流のあったカラス神父、ベニーの母と会い、さらに何かを背負ったイレーネ。彼女はベニーがしていたように貧しい人々の家に食料を届け始める。ふと、死んだ母の部屋に戻ると、意味不明だった言葉の一節が意味を帯びて飛び込んで来る。何かに取り憑かれたかのように慈善活動を始めたイレーネを許せなくなった叔母は、彼女の母を幽閉したのはイレーネを聖母だと思い込んで狂気に取り憑かれたからだと告白する。身を犠牲にして貧しい人々を救おうとするイレーネに対してカラス神父はそんなやり方では人々は救えないと言って、さらに貧しい地獄絵図のような場所をイレーネに見せる。衝撃を覚えた彼女は街を浮遊しながら、アクセサリーを物乞いに渡し、道行く人々に持ち物や上着や靴も渡す。さらにシャツを脱いで渡し、ブラジャーもはずして渡したところでわれに返る。精神病院で医者の質問に答えるイレーネは正常そのものだった。穏やかな感情の中で映画は終わる。
現代の企業戦争から地獄のような貧民の状況という振幅のある映画である。さらにその世界は霊界も地続きとなる。「聖なる魂」のダンテ的な遍歴である。エイズ患者、ゲイ……とマイノリティへの視線に貫かれて来たオズペテクの映画。本作では貧民への視線も顕著だが、貧民はマイノリティではなく、映画の題名のように「聖なる心」に貫かれた人をマイノリティとして描いているのだろう。死んだ母の言葉にもあった。それは母の生前を知る老執事から語られる。「2つの心が存在するうち、清い心を見た者はそれなしでは生きられない」というような趣旨の言葉だった。
この言葉は示唆的だ。なぜならこの映画では特定の人物を二重性のうちに描いているからだ。例えば、少女ベニーであり、浮浪者ジャンカルロである。両者とも虚実の揺らぎと共に描かれ、最初は悪人とも善人ともとれない形で描かれる。ジャンカルロはカラス神父の口によって、妻殺しの可能性まで示唆される。しかし、ベニーの清い心に打たれた後のイレーネは雨に打たれたジャンカルロを無防備にも家に入れてしまう。ジャンカルロはイレーネに死んだ妻の名を重ねる。緊迫感が募る。ジャンカルロは涙しながら(比喩的に)植物を枯らせてしまったことをイレーネの胸の中で打ち明けるだけだった。邪推が許されるなら、それはまるで疲れ果てたキリストを介抱する聖母という光景だった。ただし、その線を補強する材料はある。カラス神父はイレーネの叔母と提携して事業として貧民を救う道を提案する。対して、イレーネは慈善行為の会社化を否定する。プロテスタンティズムは資本主義の要である。その意味では、買収を繰り返し巨大化する企業を去り、自らの持ち物や身につけている物を「いらない」と思うまでになるイレーネの道はそれまでの歪んだ神の論理の否定である。
また言葉への視線も見逃せない。死んだ母の刻んだ壁中を埋め尽くした言葉。そこに一環した意味は見出せない。通常の論理では。ぼくはジェーン・カンピオンの『イン・ザ・カット』でメグ・ライアンが書き連ねていた紙切れの言葉を思い出す。そのような女性的な感覚(それはまた別の論理と言ってもいい)の言葉である。イレーネにそれらの言葉が意味を帯びてくるのはベニーの清い心に貫かれた後だった。その清い心についても触れておこう。ベニーはなぜ車にはねられたのか。普段は盗みが見つかって追いかけられても決して逃げない子だったと母から語られるベニーは、事故の時は唯一逃げ出したために車にはねられたのだった。彼女が最後に盗もうとしたのはキリンのオブジェだった。それはイレーネが街角の店で見かけて子供の頃の記憶を思い出し、買おうとしたものだった。イレーネはベニーの形見となったキリンのオブジェに決定的なものを見てしまうのである。決定的なものは映画のラストにも用意されているわけだが、それが観られるのはこの映画を観た者だけの特典だろう。
あの瞬間、ベニーの母が何かを手に取り「なぜこんなものを……」と言っている時、観客にはすでに予感があるわけだが、決定的なそれを見てしまうイレーネの表情と共にそのキリンを見せられてしまう瞬間はいくら予感していても、いや予感しているからこそ我慢できない感情の渦に呑まれてしまうものだ。最近の日本映画だと『蛇イチゴ』のラストが思い出されるが、かつてのハリウッド映画にはこういった瞬間がたびたびあった。それだけでもフェルザン・オズペテクの『聖なる心』を観るべき価値がある。何度でも観たい。
言葉への視線に戻ろう。イレーネが母の言葉を求める場面(プールで泳いだ後……つまり水による洗礼を受けた後というのが象徴的である)とか精神病院の問答で、様々な人の名前が多重人格的に語られるだけでなく、「自分の外にもいる」という台詞だとか、自らの内にも外にも存在するという描写は新鮮だった。揺らがない聖書の言葉ではない、揺らぎの中にある聖なる言葉が別にある。そのように考えられるのかもしれない。これほど素晴らしい映画の魅力が少しは伝わるだろうか。フェルザン・オズペテク、その名を見たら必ず映画館、上映会へ。

*1:ちょうど2年前の日記で触れている。細部を忘れる前に詳細に書いておくべきだった……http://d.hatena.ne.jp/tido/20040503#p1