全世界共通の「論理」

霊ナァンテコワクナイヨー

霊ナァンテコワクナイヨー

フェルザン・オズペテクの『聖なる心』に強く感情移入したのは、この本のせいもある。芯にあるのは同じことだ。ぼくだって霊とか聖人とかに特別な思いはもっていないし、信じる/信じないでいえば信じない方でもある。けれど、ただ別の論理として考えれば、そういったものを否定する方が早急なように思える。前提のものとして霊が語られてしまうことに抵抗を覚えるだけで、仮定のものとして「霊的なもの」があるのは否定のしようもないし、むしろリアリティも覚える。ギャンブルをやっていてもそういったものは感じる。ロシア文学をやっていたのも大きい。フョードロフ思想やロシア・コスミズム、もっとも惚れ込んだボグダーノフの思想&実践、そしてもちろんドストエフスキー。彼らの小説、詩、思想には何度も立ち返らねばならないだろう。ロシアならば現代作家でもそういったものが継承されている。小説の性格を考えると原語で読む能力がないのが悔やまれるが……(いずれ余裕があれば学び直そう)
ざわめきのささやき (群像社ライブラリー)

ざわめきのささやき (群像社ライブラリー)


もちろん語られるものの中には清濁があり、素人目にはそれが清と濁のどちらなのか判断がつきにくいという問題がある。要するに言葉の問題なのかもしれない。「霊的なもの」を語るのに何か別の言葉はないものか。