架空のゴーストライター
- 作者: 阿部和重
- 出版社/メーカー: 講談社
- 発売日: 2006/03/11
- メディア: 単行本
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三人称、私(=アシダイチロウ)、わたし(ヤマモトフジコ)が前触れもなく自然に入れ替わったり(互いに見知らぬ別人としてセックスしたりもする)、文面においても、アイウエオの頭文字が付く名前の登場人物たちがゴーストライターと架空の著者として、ひとつの本の企画に携わるわけだが、まるでウロボロスのように互いに歪んだ興味を持ち合うことで絡み合っていることで混乱を誘うものになっていたりする。結局、その本の企画の話についても、何の進展もなく終わってしまうわけだし、冒頭に付された東京タワーの解説は妄想的なオチと共にとってつけたように片付けられる。数種ものドラッグに溺れる私とわたしの内面のように、あるいは登場人物たちが繰り返す無意味な議論のように、小説自体が小説であることを放棄するかのように逆行し、蛇行し、停滞する。しかし、それでも紛れもなく小説である。そして面白い。
何がどう面白いか。それを説明しようとすると……難しい。馬鹿馬鹿しいから面白いというのもある。でも、それだけじゃない。立花隆のような読書法ではまったく理解できない面白さではあるけど、『プラスティック・ソウル』の面白さは小説における最も重要な面白さではないかと思う。つまり、期待感を煽られ、たぶらかされ、前後左右にゆさぶられ、よそ見する……そのような多様な体験がこの語りと共に味わえるからではないか。本来はどの小説にもそれはあるのかもしれないが、物語や情報のためにそういった語りは犠牲にされる。書き手の問題だけでなく、しばしば読み手の方が好んでそうする。立花隆のように*1。あるいは一部のポストモダン小説、メタフィクションのように前衛の名のもと、面白さのかけらもない小説が仰々しく話題にされたりする。
阿部和重の素晴らしいところは、島田雅彦的な語り口*2を借りれば、偏差値が低くても面白さが分かると思えるところだ。実際がどうだか知らないけど、なんとなくそう思える。小難しい文学や思想の語彙やレトリックなどを知らなくても、阿部和重の小説には純粋な小説的面白さがある。そう思える。もっとも、他にいろいろな側面からこの小説を見ることはできるだろう。まあしかし、ぼくにはそれを述べる能力がないので、とりあえずネットでも散策してみるとしよう。
あ、そういえば書き忘れるところだった。ひとつ誤植らしき箇所を見つけたのだった。94ページにアシダとウエダの会話がある。彼らはエツダの話をしている。エツダはそこにいない。
「ほかにも何か知ってるのか?」アシダの狙い通り、ウエダの表情はより真剣さを増していた。
「じつはあの日、あいつと同じ電車で帰ったんだけど、変に気に入られてね」ここまでアシダがいうと、エツダを同僚が呼びにやって来た。しかしエツダは同僚に「すぐ行く」と告げて、最後までアシダに話させたのだった。
あれ?アシダとウエダの会話なのにエツダがいるぞ。しかし、この小説の性格上、一概に誤植だと言えない気もしてしまう。アシダはドラッグをキメまくっている奴だし、ウエダも陰謀論好きのおかしな男だ。もっとも、エツダも一風変わった考え方をするコンビニの店長だ。もしかすると、ウエダとエツダは同一人物で、アシダがドラッグのせいで幻影を見ているのかもしれない。あるいは、アイウエオの頭文字の人物たちはみんな同一人物なのかもしれない。もしかすると「エツダを同僚が呼びにやって来た」というのは別の空間での話で、案の定前触れもなく挿入された紛らわしい一節なのかもしれない。ふいに、そういう疑念が呼び起こされ、誤植を見つけたというささやかな優越感はどこかへ行き、本当のところは何なのか分からなくなってしまった。阿部和重は小説の外でも混乱させようとする気なのか。それともK出版社の陰謀か。