演劇とゲーム

ユリイカ』を買って任天堂特集をざっと読んだ。さすがに10代の頃とは違って、新しいハードを買ってもなかなかゲームに熱中できなくなってしまった今日この頃だが、「我ら任天堂チルドレン!?」の対談など興味深い話が盛りだくさんだった。ぼくはファミコンディスクシステムゲームボーイスーパーファミコン→PCエンジン→PCーFXという流れを中心として、プレステやセガサターン、PC98時代のパソゲーなどに多少触れるといったゲーム遍歴であり、ほとんどの決定的体験をPCエンジンに拠っているので、同時代のことで知らないことがたくさんあって新鮮だった。
あと、鴻上×八谷対談でもちょっと触れられているけど、ゲームと演劇性(身体性)の関係というのは重要な視点だと思う。任天堂はまさにそれを追求してきてDSで再びそれを取り戻したわけだし、細かい操作性や小さな配慮によってプレイヤーをうまく取り込む工夫を凝らしてきたわけである。ゲームボーイ版の『テトリス』についての米光一成の発言などけっこう重要なところだ。

落ちたあと固まるまでのタイムラグとか、下ボタンで落下速度の速くなるスピード調整とか、やっぱり任天堂はゲームをわかってる、というのをひしひしと感じた。BPSのパソコン版とかもあるんだけど、作りが甘くて。

宮崎駿みたいに、よく子供が自然で遊ばなくなって……云々ということを言う人がいるけど、ぼくの子供の時の記憶をたぐり寄せてみるとファミコンを中心とした当時のゲームには紛れもなく身体性があって、またぼくは田舎育ちだから自然でも遊ぶわけだけど、そういった外遊びと室内のゲーム遊びは同列のものとしてやっていたように思う。自然には自然の何らかの意義があるかもしれないけど、ゲームにはゲームの何らかの意義もあったはずだ。それは措くとしても、演劇性あるいは身体性、またはかつて『ゲーム批評』で論じられたような「無形技術」は、ゲームにおける重要な要素として育まれてきたものであり、それなしのゲームは味気ないものになってしまう。
ぼくはそれをPCエンジンから多分に受け取ったから任天堂特集だけでなく、どこかでPCエンジン特集とかNECアベニュー特集、または完全になかったことにされようとしているPCーFX特集などをやって欲しいと思う。当時のCDーROMの読み込みの遅さ。あのハンデキャップを持ちながら、ぼくたちユーザーを虜にし続けたマイナー精神を蘇らせて欲しいものだ。『ウルトラボックス』シリーズとか、昨今の流行でもあるミニゲーム詰め込み系のものもすでにやっていたのだ。しかも、女の子が延々と縄跳びしていて、ボタンを押すとジャンプして縄を飛び越えることができ、それをうまいこと継続しているとどんどん女の子の服が脱げて行くというミニゲームとか、それのハードル版とか(笑)
ぼくのかかわっているP業界についても、パチンコより遊技性の高いスロットはゲーム世代がメインであり、リール制御のスベリや目押しというものは身体性と無縁ではないのである。それについては後々考察していきたいと思う。