病気か正常か

遅ればせながらビデオにて。エグゼクティヴ・プロデューサーにトニー・スコット、製作にリドリー・スコットが名を連ねている。
少しばかりネットで感想などを任意に読んで意外だった。たまたま巡回したサイトがそうだっただけかもしれないが、ボロクソにこの映画をけなしていたからだ。ぼくには傑作に思えた。図らずもこの前のイタリア映画祭の最高傑作フェルザン・オズペテクの『聖なる心』に通じるものまでうかがえた。とりわけ娘と死んだ母の関係について。そんなことをわざわざ持ち出さなくても、この映画のリズム、ひとつひとつのカットと編集への意識がそのまま映画の中心となる姉妹のありようをまざまざと表現していて、物語が活き活きと体感されるのは気持ちの良いものである。そのためラストで姉を見送るキャメロン・ディアスが去って行く場面は惜しい気持ちでいっぱいになってしまった。
社会から無意識にはみ出してしまう姉妹のありようをまさに「映画」で描いているのはとても説得的である。ハリウッドの現代女性を描こうとする映画は似たパターンになることが多いけど、『イン・ハー・シューズ』は姉妹という関係を中心に、母と娘、父と娘、義母と娘、おばあちゃんと孫、元教授と失読症の女、法律オタクと結婚も仕事も失った女……など複数の関係をとらえることによって、まったく説明的にならずに自ずと人物模様を描くことに成功しているのだ。もしかしたら、この表層的な描写がネットで見かけたこの映画への非難だったのかもしれない。しかし、表層的であることによって、むしろ『イン・ハー・シューズ』は素晴らしいのだと思う。象徴的な小道具としての靴の使い方も絶妙である。それほどしつこく用いるわけでなく、さりげなく姉と妹や祖母と孫を媒介するモノとして用いられる。
また、ハリウッドのこういった現代映画の傑作を見ると、主となる人物が悩んだ時に寄り添う人物がとても良い存在感を出しているのが分かる。愚直に慰めるわけでもなく、多くの日本のドラマの薄っぺらい助言でもなく、時には寄り添うだけだったり、時には相手を鼓舞したり、なるほどと思わせる台詞をもってくるのである。
イン・ハー・シューズ』を観て、再び『聖なる母』の凄みを思い出し、血が沸々と煮え立ってくるのだった。