「俺は間違いなく絶望の直中にいる」

ぜつぼう

ぜつぼう

これはなかなかの傑作である。東京デスロックの素晴らしい芝居を観たのを間接的なきっかけとして、店頭に出たばかりの頃はそれほど興味をもたなかったこの本を手に取ってみた。「劇団、本谷有希子」のことは全く知らない。しかし、同じ世代ということで何らかの接点はあるに違いない。そう思って、本書を一気に読んだらなかなか良かったというわけである。『SPA!』の書評では確か「構成はいまひとつだけど、言葉の選び方にセンスが光る」みたいな調子で書かれていたように記憶していたが、むしろ構成はあざとくならないぎりぎりのところでなかなか良かったんじゃないかと思う。何より絶望をフィクションとして認識していることが、この小説において重要なポイントだろう。真に絶望することが不可能な状況に置かれているという時代精神をとらえ、崩れ芸人の漂流を小説的な面白さで綴ることに成功しているのだ。むしろきちんと構成しているということで、言葉遣いとしては似ていると思える中原昌也阿部和重の小説から多少の距離を感じさせる。自意識の葛藤や女のエロスの描写など、女流文学として読むとかなり異質な部類に思えるほど、感覚的な描写からは遠く、歪んだ論理展開を仕掛けてくるのでけっこう笑える。例えば次の箇所。

 壁に預けていた体を離した戸越は、風呂場を目指していた足の向きを変え、ふらふらと階段の方へと戻り出した。悩んでいるならもっと悩んでいる人間らしく振る舞わねば、と風呂に入ってさっぱりすることを諦めたのだが、しかし階段を上る途中、さきほどの鼻歌をシズミが実は聞いていたのではないかという疑問に思い至り、戸越は腹の底から困惑を吐き出した。鼻歌はこともあろうに、電気チェーン店の浮かれたCMソングだった。無意識だったのでなぜそんな選曲をしたのかは自分でも分からない。しかし「あなたの近所のアキハバラー・サトームセン」。果たして、うどんと太巻きをぺろりと平らげてそんな鼻歌を歌いながら風呂に入ろうとしている人間を、百人中何人が「絶望している」と認めてくれるだろうか? 絶望している人間は二十四時間一秒たりとも他のことは考えてはいけないのだろうか? そもそも自分がずっと絶望だと思い込んでいたものが、実は他人から見れば絶望でもなんでもないということがあり得るのだろうか?

この小説の主人公である戸越のように、信頼を裏切られ一方的に傷つけられることを恐れ、常に防壁を張り巡らしながらもどこかで真の接触を求めてしまっている弱い自意識。それに焦点をあてるということ。なかなか良いんじゃないか。『腑抜けども、悲しみの愛を見せろ』も読みたくなった。劇団の方も観てみたい。
加えて、ついさきほど読み始め、冒頭だけ読んだところなのだが、本谷有希子の後にこの本に繋がったことは我ながら的確な選択だった。

斉藤環は「はじめに」でこう書いている。

しばしば現代人は、希望を語る言葉はシニカルに嘲笑しつつ、絶望の言葉には奇妙なリアリティを覚えるようです。しかしシニシズムを語るものは、空疎な希望に騙されまいとして、あっさり絶望に籠絡されてしまってはいないでしょうか。希望を語るまいとして、絶望に騙られてはいないでしょうか。もしそうであるなら、おそらく彼らは気づいていないのです。希望も絶望も、まったく同じ水準において「フィクション」にほかならないということを。

痕跡はあらゆるところに刻まれているのだ。鋭い嗅覚はそれを嗅ぎ取る。ストリップ劇場におけるレズビアンSMショーという局所的なものにおいてもそれは同じに違いない。
というわけで本日もやっぱり行って来た紅薔薇座公演。楽日。詳細は次のエントリにて。