ドライな犠牲の上に輝くヘキサゴン

tido2006-06-11

ポセイドン・アドベンチャー』は好きな映画だ。というより、あの時代の映画はあらすじを読んだだけで胸が躍るものが多くて、ジーン・ハックマンに限っても『フレンチ・コネクション』の雰囲気と相俟って相当惚れ込んでいた。そうはいっても、中学生の頃に浴びるように観ていたビデオの一本に過ぎないので『オーメン』同様に、細部まで覚えていないというのが正直なところである。
とはいえ、印象としてはかなり違う映画になっていた。前半の豪華絢爛さが後の悲劇を際立たせる。「超大津波」に蹂躙される人間たちの描写はなかなか迫力があって良い。当時の『ポセイドン・アドベンチャー』の慎ましい雰囲気も好きだったけど、ここまで派手にやってくれると別物として楽しめる。煩雑な描写もそれほど混乱せずに観られる。その点においてはリメイク版『オーメン』より数倍良い。
では、ドラマ部分はどうか。独自の視点で描こうとする意志が感じられる。さすがに子供だけは救われるのだが、あっけなく犠牲にされる若者や何で登場して来たのか分からない酔っぱらいもあっけなく死に、困難を乗り越えた後にあっけなく死んでしまう女、そしてあのテロの記憶を呼び起こすような設定、つまり元消防士であり、その栄誉ゆえに元ニューヨーク市長でもあった男は自ら犠牲になる。この辺りの描写はこの手の映画にしてはかなり禁欲的である。残された者が慟哭する場合もあるが言葉を一時失った後はすぐに前に進む。『タイタニック』や『アルマゲドン』みたいな映画に比べるとかなりドライに感じられるだろう。
確かに部分的に伏線はある。もっとも、その元NY市長であり元消防士である男(カート・ラッセル)の葛藤らしきものは、周囲の人物との関係で浮き彫りにされるが、十分に掘り下げられることはない。むしろ、娘(エミ−・ロッサム)と父親という関係性がクローズアップされる。だから、進んで犠牲になる場面は、娘の結婚を前にとうとう父親という役割を終えたみたいな印象を受けなくもない。
ラストを観てぼくはこの映画の印象を少し変えた。それまでの割とドライな描写から、9.11のテロ後の文脈からずらしたある意味純粋な娯楽映画というふうに何となく考えていた。もちろん、9.11後の文脈がどうとかいうのは観る側の問題だろう。まったく何も感じない人もいるだろう。けれど、カート・ラッセル演じる人物の設定を導入することで、あえてその記憶を引き出し、しかしその上で、あまり関心がないようなドライな描写を施すことによってずらしている。そう考えていたのだった。
けれど、船のプロペラ部分からの脱出シーンで犠牲になると思われたジョシュ・ルーカス紙一重で助かり*1、そのまま映画は救助隊に発見されて終わるのかと思いきや、(まさに文字通り)もうひと波を乗り越えてから終幕するのを見て、何か少し引っかかるものがあった。船から脱出して海に飛び込んだ主要メンバーが泳ぎ付くのは漂流するゴムボート。閃光弾を発射して救助隊のヘリに発見される時、空中から彼らの乗るゴムボートがとらえられる。ゴムボートの形に何か意味があるのかどうか知らないけど、ペンタゴンではなくヘキサゴンである。そこにヘリの強烈な照明が注がれる。人物は遠景で、かすかに映し出されていたが、この強烈な照明によって人物の姿もゴムボートの姿も見えなくなってしまう。
生き残るのは誰でも良かったんじゃないだろうか。紙一重の偶然で助かったジョシュ・ルーカスのように。船の設計士だからといって付いて来た老人(リチャード・ドレイファス)は、冒頭でもう、まさに人生を諦めて死の予感をはらんでいたわけだが、結局ほとんど役に立たないまましぶとく生き残る。この偶発性。災害における死の意味付けをする政治的な映画にせず、偶発性によって人の生き死にがドライに描かれ、ああ助かったとあっさり終わる潔さ。そのように観ると、印象的にはまったく異なる『ポセイドン』と『ポセイドン・アドベンチャー』が少し近づいたように思えた。豪華なパニック・ムービーとして観ればいいというわけである。

*1:この前のシーンで危機一髪子供を助けたから、役割を果たしてあっけなく死んでしまうと予想された。だが、映画のクレジットの並びを見ていればそんな配慮も必要なかったかもしれない。