セックス・シンボルについて(個人的に)考える

「人びとは私を、まるで一個の人格ではなく、
ある種の鏡であるかのように眺めたものよ。
私を見るのではなく、彼ら自身のみだらな考えを見て、
私をみだらな人間と呼ぶことによって、
自分自身にほおかむりをしたのよ」
(『PLAYBOY』7月号「ユーモア溢れる女神の語録」より)

記事の一文にこうあった。「彼女(マリリン・モンロー)はセックスが甘いファンタジーの中にあった50年代という時代が生み出した偶然の産物なのだ。そして時代が逆戻りすることがないように、"第2のマリリン"が生まれることも決してないのである」と。確かにセックス・アピールを感じさせるハリウッド女優をこれまで見て来ても、様々な情報と共に知らされるマリリン・モンロー像とは決定的に違うものがあるような気がする。それが時代のせいかどうかは措くとして、自らあてがわれたセックス・シンボルという役割をあえて引き受けつつ、上に引用したようなユーモア溢れる語録を残しているのは興味深いと思った。
彼女のセックスとは自由のことであり、つまり「開かれている」ことだ。そのようなものとしてのセックス・シンボル。開かれているゆえに、「彼ら自身のみだらな考えを見て……自分自身にほおかむりをした」人々の姿がまざまざと見えてしまったのだろう。善意も悪意も一身に受けとめなくてはならないのだ。
ずっと繰り返し続けているが、ぼくは先日の日記で書いたように衝撃のストリップショーを観た。とりわけゆの&京による真性レズショーの衝撃はあのように綴った通りである。何があそこまですごかったのかと思えば、やはりひとつに彼女たちがすべてさらけ出して「開いている」ことにあった。そこに迷いなどまったく存在せず、注がれる欲望の視線さえ、すべて吸収して包み込んでしまうほどに神々しい魅力を放っていた。
それはまさしくある種のシンボルのようだった。セックス・シンボルとしてのマリリン・モンローが50年代という時代性に規定されていたのだとしたら、彼女らの舞台は現在という時代性を体現したセックス・シンボルとなりえたのかもしれない。もちろん、局所的で瞬間的なものではあった。けれど、その一部始終を観ていた者としては、舞台上のゆの&京を見つめつつ、欲望の視線を無化され、全身を揺さぶられ、挙げ句の果てに、自分自身があのように開かれていないことのもどかしさが募ってしまうのだった。以後、何をしていてもそのことが頭の中を占めてしまう。決定的に何かが変わってしまった。これまでそれなりに自意識の殻を破り、さらにその外にある殻を破り……と実践して来たことが、結局より広い自意識の世界の中で行われた自作自演の茶番だったのではないか? 結局「自分自身にほおかむり」していたのではないか?
そのような思考が頭を駆け巡り、これはどうにかしなくてはならないと思うのだった。真に開かれていることとは、自分の意志で実践するだけでは不可能な到達点なのだろう。ちょうど読み終えたばかりの『「性愛」格差論』(斉藤環酒井順子)が様々な格差の幻想を打ち破るには「性愛」だという結論をしていたが、それは入り口に過ぎない。ヒントにはなるかもしれないけど、さすがにこの結論で救われるという人はいないだろう。性愛にもいろいろあるだろうし、入り口の姿勢こそ難しいんじゃないか。確かにぼくも自分のこれまでの取り組みにおいては性愛を入り口として、目の前の壁を乗り越えようとしてきた。殻を破るのにはもっとも手近で有効なのは間違いない。知人にも同じ考えの人はいた。
けれども、これだけでは乗り越えられない決定的な壁がある。ゆの&京のレズショーはその壁を圧倒的に超えてしまっていた。あの舞台は本当にどのような境遇にある者にとっても決定的な表現たりえた。孤独でどうしようもない自分の分身、その分身に愛され、愛し合い、身も心もすべて溶け合うかのように交わり、しかし、傷を刻むことで個々の存在は隔て、分身に取って代わられる。考えてみると、このシンプルな物語自体には、性愛に開かれつつも、それは自己愛の中の幻想であり、最後は悲惨な目にあってしまうという鋭い批評性が含まれているように思える。ただし、先日の日記でも触れた通り、圧倒的な目の前の光景は、同時に状況の超越をも描いていたのである。文字通りすべてを開いて愛し合う彼女らの存在すべてによって。あの舞台の記憶が少しずつ薄れていってしまうのをどうすればいい!
今後ゴミのように人生を送るのならまだしも、自主映画など何らかの表現を個人的にやっていきたいと考える上で、この体験を看過することはできないと思った。絶望も希望も忘れた生温いシステムの中にいつの間にか取り込まれていたようだ。とにかく、しばらくは愚直に問題を受けとめて、煩悶し、立ちはだかる壁に風穴を穿つことを模索していくしかない。それまでこの日記のトーンはこんな感じが続くかもしれない。