(超鋭角的に)斜めから見る90年代以降

  • V&Rの歴史1990-1996
  • V&Rの歴史1996-2004

言わずと知れた異端AV制作会社の総集編的ビデオである。最近は新作DVDばかりで溢れかえってきたレンタル屋のアダルトコーナーで発見。冒頭、庵野秀明が語り始める。なるほど……90年代か。
バクシーシ山下の「社会派」ドキュメント、カンパニー松尾のセルフドキュメントから始まり、女優やADや飲尿男などに焦点をあてつつ、V&Rの歩みを大まかに振り返る。そこには人間の面白さが刻まれている。バクシーシ山下の『女犯』をめぐって会合を開くPTA的なおばさんたちなど、モザイクがかかっていても面白いし、若くして事故死してしまう飲尿男の本当においしそうに尿を飲む様子の爽快感。太陽が輝く青空の下での飲尿。90年代前半はそんな青空飲尿に象徴されるような、突き抜けた人間讃歌の印象がある。『ボディコン労働者階級』に出てくる朝から酒を飲み続けてろくにセックスもできないおじさん。どこかが過剰なところがあって変な感じはするけど興味をもたずにはいられない女優たち。そんな人間たちへの興味が引き出される。
後半にもそういった一面は通底している。しかし、迷走もしているようだ。1995年以降というのが影響しているのだろうか。ビデ倫脱退云々というのも関係あるだろう。特に安達かおる監督の『大喰糞』やその続編で、桃井麻美が自分や花岡じったのうんこを食べ、小便を飲み、耐えきれず洗面器に吐き、それを再び食べさせられ、体調を崩す姿は直視し難いし、さらに、大量の生きたミミズ、うじ、ゴキブリに加え、自分の小便を混ぜたものをミキサーにかけて、そんなおぞましいミックスジュースを飲み干す彼女の姿には強く興味を覚えるも、生理的にやはり直視し難く、しかしそれでも直視しなければいけないような気分にさせられる。いったいどんな力が彼女をそのようにさせているのだろう。
そんな過激な現場に飛び込んだ3人の新入社員。彼らの居酒屋でのだらだらしたインタビューを交えてV&Rの歴史の後半は語られる。彼らが口にしたのは「終わりなき日常からの離脱」だった。そのために向ったのがV&Rという異端AV会社だった。オウムと同様、密教的、あるいはカルト的な要素はある。ただし、そこにあるのは人間である。たとえ当人が虚飾しようとしていても、カメラはその振る舞いを含めて人間をむき出しにして見せてくれる。前編の方でポンプ宇野のサービス精神(?)と形容された過剰さから見えてくるのも、まさに人間そのものなのである。後編のラストで水中セックスが何やらアート的な方向に向っているようで、迷走の印象と共に「V&Rの歴史」はいったん閉じられたわけだが、90年代を相対化する意味で、V&Rの歴史からひとつの視点を得るというのは効果的であると思う。人間への興味。アプローチの仕方次第で、人間こそ最も面白いものとなる事実をV&Rは教えてくれる。
ぼくがまだV&Rのビデオを知らない時、地方のサンテレビという局の深夜番組を眺めていたら、バクシーシ山下という人がビデオカメラを片手にホテルの一室で女の子を撮影するというのを偶然観たのだった。特に変態的な行為をするわけでもなく、ちょっとエッチな深夜番組といった感じで、毎週のささやかな楽しみといった程度だった。その後、偶然AVで『めちゃイケてる飲尿娘』というのを観て衝撃を受け、その監督がバクシーシ山下だということを知った。以後、V&Rのビデオを見つけたら借りるようになり、AVは十分に好奇心を満たすものという認識を持ったのだった。実際前述した『大喰糞』のように過激なものもあるけど、V&Rのビデオが面白かったのは、小学生的な発想というか、ストレートな興味や好奇心の訴求という点が大きい。
小中学生の頃は、罰ゲームと称して、例えば仲間たちが順番にコップに唾液を入れ、負けた者がそれを飲まなければいけなかったり、むき出しにした尻で顔面騎乗されたり、ストレートな好奇心が純粋なまでに行動に結びついていた。そういったものはいつの間にか抑圧してしまう。V&Rのビデオに出会ったことは良いリハビリだった。高橋源一郎バクシーシ山下の特徴を称して「パースペクティヴの消失」と書いていたような気がするが、おそらくそれは社会的な物差しから自由な、純粋な興味の発露のことだろう。そんなことを密教的に追求して来たAV。時代の流れとあわせて考えてみると面白いに違いない。過去作品をしっかり改めて観るべきだなと思う次第である。