表象不可能性

吉田喜重の『鏡の女たち』を観たとき、大学の先輩からヒロシマの戦争記憶の「表象不可能性」の観点から示唆を受け、それ以来は何かのたびにこの問題を考えてしまう。
先日タイトルで衝動買いした飛鳥部勝則の長編本格推理『ラミア虐殺』を読んでいて、探偵の杉崎と彼の遺恨の矛先である北条秋夫の対峙の場面でふと考えてしまった。杉崎は北条絡みの過去を忘れようとしていたが偶然の成り行きで北条秋夫と遭遇する。そこでの最初の対峙の場面、杉崎は遺恨を晴らそうとしていたが、北条が一方的に戦争体験の悲惨さを語り始めてしまう。結局その場面では、杉崎は何もせずに北条のもとから去る。そこで杉崎は考えるのである。自分の生【なま】の遺恨を直接北条にぶつけるとどうなるか、と。ここには、本当にどうしようもない体験(過去)を伝えることへの真摯な問いを感じる。
ぼくが日記で取り上げたアトム・エゴヤンの『アララトの聖母』は、アルメニア人の大虐殺をめぐる複雑な語り口の物語だった。そして、その複雑な語り口は何らかのリアルに迫ろうとする手段だったように思えた。その映画には、アシール・ゴーキーという画家の絵をめぐるコミュニケーション、息子と母と死んだ父と義理の妹(姉?)のコミュニケーション、アルメニア人の虐殺についての映画を作ろうとする人たちのコミュニケーション…様々なコミュニケーションの媒介によってとても複雑な文法が成り立っていた。
9.11同時多発テロの後、あらゆる映画がその時のイメージの暴力に浸食される形となった。そのトラウマ的体験を浄化しようとするナイーブな映画が作られる、あるいは映画がそのような文脈に回収される一方で、その体験への逡巡をそのまま描いたような複雑な語り口の映画も作られたように思う。
11カ国の映画監督が短編を寄せ集めた『セプテンバー・イレブン』などは典型的だったが、ナイーブなものと複雑なものを見ることができた。ショーン・ペンの映画は典型的なナイーブなものだったし、今村昌平はあえてやっているようなナイーブさを表現していた。一方、クロード・ルルーシュは聾唖の女性を登場させることで、語り口の問題としてコミュニケーションの媒介を主題化していたように思う。
やはりこういった表象の問題を考えると、アウシュビッツに行き着いてしまうのだが、強烈なトラウマ的な体験(過去)に迫ろうとするとき、なかなか有効な手段は見出せない。「アウシュヴィッツのあとで詩を書くことは野蛮である」というアドルノの言葉を思い出すまでもなく、表象不可能性の問題は何度も繰り返し顔を出してくるのだ。
何だか脈略のない文章になりつつあるけど、前に戻ると、最近の映画(やアニメや文学…ぼくはその辺の分野しか明るくないので限定…)はトラウマ的な体験に、語りの複雑さ、あるいは媒介性によって迫ろうとしているように思う。いや逆かな。トラウマ的なものを直視できないがゆえに、何重もの媒介を経由しなくてはならないのか。分からない。
けれども、例えば『アララトの聖母』では重層化された媒介性によって、ある種の共感を生み出していたように感じた。立場の異なる人と人が語り合うことを通して、そこに理解が生まれなくとも共感が生まれる可能性があるのだと描いていたように思うのだ。
『ラミア虐殺』の件の場面では、北条秋夫が戦争体験=トラウマ的なものを無媒介に語るがゆえに、いや、語れるがゆえに、それはすでにその程度のことでしかない。杉崎はただ聞き流すだけなのだし。しかし、杉崎の北条への遺恨はそこでは語られない。そこには無媒介性へのためらいがある。ぼくはまだ『ラミア虐殺』を読み終えていないし、ただ気になってしまって色々なことを書いてしまったが、何もまとまった考えなどもっていない。しかし、語り口の複雑さ、媒介性、表象不可能性という問題にはこれからも向かわなければならないだろう。