萌えと恋の事情

先週号だったか先々週号だったか「SPA!」で「萌えビジネス特集」をやっていたのを読んだせいか、近頃改めて「萌え」について考えてみた。で、自分なりにある仮説にたどり着いた。
以前からぼく自身が萌えを実感するとき、あるいは他人が萌えを告白するのを見聞きするとき、漠然とした疑問を感じていた。そしてちょっと前にid:yassabaさんの日記の「萌えを考える」を読んだときに、そこで述べられている「萌え観」に完全に共感しながらも、これはある感情と一緒ではないのか思った。恋だ。エロとは違って勃起はせず、胃の底がぎゅーっと締まるなんて、まさに思春期の恋愛感覚そのものではないか。「触手」が欲しかったかどうかは覚えてないが…。
ぼくは昨日ジェラール・フィリップ主演映画の2本立てを観ながら、不謹慎にも萌えのことを考えていたわけだが、そこには逆説的な関連性があったのである。ぼくの考えでは、萌えは二次元やバーチャルという点に重要性があるのではなくて、一方通行な感情であるということに重要性がある。そして、ぼくが想起した思春期の恋愛感覚とはすなわち片思いの感覚に他ならない。現実において、片思いが難しくなった状況では恋=萌えがありえなくなり、セックスありの双方向的な関係になってしまう。
ぼくの中で萌えらしき感情が芽生えたのは、たぶんPCエンジンにはまり始めた中学2年生ぐらいの時だった。そして、その時は中学校生活において奔放に性的コミュニケーションが男女間でなされていた!授業中に乳繰り合う奴らはいたし、休み時間にカップルが男子トイレの個室にこもって互いの性器を見せ合ったりして、そういうのが公然の事態になっていたのを思い出した。ぼく自身はそういう現実から退却したんだろうと今なら思う。
そう思ってウェブ上を探索していると、「『萌え』は、かつて日本に輸入された『恋愛』という概念の最後の生き残りといえる」という記述の含まれたサイトを見つけた。
http://ya.sakura.ne.jp/~otsukimi/hondat/view/moeru.htm
なーんだ。やっぱり他にも考えている人はいたのか…。しかし、一般的に言って、現実の女性に萌えることが難しくなったのはいつだろう。おそらくメディアの影響は大きいと思うが、その過渡期は萌えが公に発見された時期に重なるのではないだろうか。その辺りにぼくは詳しくないので仮定に過ぎないが…。
だが、今にして重要なのはさらなる展開だろう。「萌えビジネス特集」に戻る部分もあるが、二次元における萌えが現実にフィードバックされるということだ。イメクラはすでにピークを過ぎたのかもしれないけど、萌え要素を取り入れたのかのようなグラビア・アイドルたちが増えてきたり、文学業界の再生に美少女がもてはやされたり。これは「動物化」ということとも深く関わっていると思う。逆に考えると、片思いしていたような時期にはぼく(たち)は「動物的」だったのかもしれない。
自分自身について言えば、とにかく一方通行的であることが問題だったわけで、萌えてばかりいた時は双方向的なコミュニケーションなどしようはずもなかった。内心は、萌え対象との双方向的なコミュニケーションを望んでいたが、それは幻想としてだった。高校生以降はシーメールふたなりに萌えていたので、大学のために上京した後、確信犯的にゲイバーに通ってニューハーフと付き合ったが、そこでやっと捻れを回復できたのだろう。セックスを介入させた双方向コミュニケーションをしてからは、(相手が悪かったからかもしれないが)要素に萌えるなんてあるはずなく、ただただ色々な点におけるギャップに疲れ果てるのみだった。
その経験がたぶん去勢として働いて、ぼくの萌えはある程度断念されたのだろう。しかし「SPA!」のその記事にも出ていたけれど、萌えている時の浪費というのはキャラへの愛そのものだから…本当に危ない。萌えを断念していなければ、こうしてネタにすることもできないぐらい本気だったろう。こういうことを考えたりするのには、『ひきこもり文化論』で万能感の去勢について書かれた部分があったこととも関係している。いつかは自分自身のたどってきた過程を総括しなければいけないと思う。