バイト終わる

バイト先のご子息が中学受験を控えていて、何よりも一番の配慮を息子の先行きに注ぐ母親はホテル業なんかそっちのけ。すべての重圧はぼくに降りかかってくる…というわけで、今週日曜日も朝から晩まで留守番を頼まれた。特に何をするというわけでもないので、バイトとしてはこの上なく楽だ。明日土曜日はサニ千葉特集のオールナイト。そのままバイトに入って、おそらく爆睡するだろう。
平行して読んでいたハッシーこと橋本秀雄著『男でも女でもない性・完全版』を読了する。本人も半陰陽の当事者として苦しみぬいてきた生い立ちを赤裸々に語った内容。ぼくたちにとっての自明性が鋭利な刃物となってしまう齟齬。興味の視線とか排除の視線とかより対話。ハッシー自身が対話の重要性に気づいてトラウマを克服していく物語でもある。そう、自明でないものを前にした時に人は迂回しすぎなのだ。だからいろいろと捻れてしまう。最初の捻れは当事者と親との間、あるいは当事者と医者との間、あるいは親と医者との間に生まれる。親は子を思うばかりに社会から疎外される。
何かに似ていないだろうか?斎藤環による「ひきこもりシステム」だ。こういった後ろ向きな抱え込みは結局システムとしての問題を孕んでしまう。ハッシーが最後は親と向き合うことに向かったように、まず身近な接点を見つめることが大切だろう。ひきこもりも半陰陽も他の何であろうと、向き合って見つめていくことが何よりも重要だということは言うまでもない。斎藤環があえて口を酸っぱくして「啓蒙」に乗り出したように、あえて見つめ直すこと、対話していくことは今の時代に必要なんだと思う。
そういえばあまり関係ないけど、鈴木光司の『リング』において貞子は半陰陽と設定されていたはずだった。原作を読んだときに、ぼくはその点を強く記憶していたが、映画を観た時はそれほどひっかからなかった*1鈴木光司は遺伝子とかをネタにしていたし、半陰陽をどういう意図で用いたのか気になるところである。

*1:もう、映画の内容はあまり記憶にないのだが…。どちらかというと、高橋克典原田芳雄のヴァージョンの方が強く印象に残っている。高橋洋×中田秀夫のコンビは素晴らしいのだが…数年遅れてしまっただけに個人的にはそれほどインパクトを受けなかった。