おっぱいから乳首へ、そのグラデーションについて
http://www.yomiuri.co.jp/hochi/geinou/jun/o20050607_10.htm
犬童一心と渡辺あやの前作『ジョゼと虎と魚たち』で池脇千鶴の乳首が露出したから、ついつい『メゾン・ド・ヒミコ』の柴咲コウも……とゴシップ的な期待をしてしまうのだが、この話題を取り上げたどこかの週刊誌ではオダギリジョーに乳房を揉みしだかれる描写はあれど乳首に関しては触れられていなかったので真相は不明である。以下は戯言。
http://d.hatena.ne.jp/snooz/
そういえば『Zero WOMAN』で見た飯島直子の乳首は、ドラマチックでもなんでもなくカットの切り替わりとともにフルサイズのショットで横から全裸をとらえたあっさりした露出で、週刊誌で予告されてから半年ぐらい待ちに待った割に拍子抜けしたのを思い出す。小人に拷問されたりするシーンなどエロい部分はあるが。個人的に思い入れのある「乳首露出」は、ぼくがいちばん好きだった七瀬なつみの『桜の樹の下で』である。今も好きだけど彼女の結婚以降ほとんどチェックしていない。最後に目にしたのは銀座の劇場にて七瀬なつみ主演の『コミック・ポテンシャル』という芝居に行った時。最前列で食い入るように観た。*1
それはさておき、ぼくはこういうのが好きなどうしようもない人間だけど、こういったおっぱいや乳首の露出が健全なお色気としてどうなのか、ということを考えてみたいと思う。
先日も、夕方のアニメなどでおっぱいや乳首が露出されていたことについて、それが青少年向けの健全なお色気として必要なものだったんじゃないかという意見を紹介しつつ、自分なりに考えてみた、というか中途半端に放り投げてしまったのだが、ソフトコアVシネマなどは措くとして、普通の人が観るような映画においておっぱいや乳首が露出されるということは青少年の健全な性にとって必要なんじゃないかと思う。
(限られた部分という意味で)局部が露出するしないか、ヘアが見える見えないか、ということがレーティングや自主規制を左右するならば、自ずと見せないための表現へと傾倒する。それがいけないとは思わないが、テレビで久しく乳首が見られない状況はおかしい。単に見せろというわけじゃない。ハプニング的にポロリだったり、「トゥナイト」みたいな情報番組とかでそれが当たり前のように露出されていたりする方が自然だし、欲望を変に歪ませたりしないんじゃないか、ということだ。
問題はやはり「二極化」*2だ。一方では無修正の氾濫、そしてインディーズAVの近似的無修正志向。もう一方では権力を予期した自主規制による「健全なお色気」殺し。女性専用車両とかも関わってくる……というのは冗談にしても、公正な社会への志向とは無関係に、息苦しさが培養されているのも確かである。それは阿部嘉昭の指摘する鑑賞側の「余裕のなさ」か。
昔といっても10年も前ではないと思うが、渡辺美奈代のチラリズム写真集が流行った頃があって、おニャン子とかに全然関係なくそれを消費していたぼくは、こういうのこそ犯罪的だと思った。見せる流れに抵抗して見せないことを戦略として、確かにヒットもしたのだろうけど、写真集を見ても満足することなどなく、欲望ばかりが増幅させられ、結局オナニーのために他のものを代用しなければならなくなる。そういった流れの延長線上なのかどうか分からないが、いろんなフェティシズムがもてはやされ、それはそれで楽しめるとその時は思えたけど、「健全なお色気」なき時代に突入してしまうと、楽しむ余裕が失われてしまう。他でおっぱいや乳首を見られたからフェティシズムを楽しめたのに、フェティシズムだけになったら本末転倒になってしまう。挙句に、そういうものでも「ぬける」ように「適応」するのだが、気づいてみればそういうものでしか「ぬけない」となってしまうかもしれない。考え過ぎだろうか?
こうなってくると最後の砦は「健全なお色気」を内包した映画である。犬童一心がそれを意図するかどうかは別としてある種の層はそれを心待ちにしているに違いない。もうひとつの公開待機作『タッチ』においても「健全なお色気」が発揮されることを祈ろう。