グドゥマが始まる

在宅バイトが減っていないという事実を目の前にして、今更やっぱり飲み会にいくんじゃなかったという後悔に襲われている。あと6時間もすれば持って行かなくてはならない。イライラしてくるのに、給料前で手持ちの金がなくて栄養分を補給できないためさらにイライラが高じて、今にもグドゥマが始まりそうになってしまう。
今の状況を感じるままに書いていたらグドゥマという単語が出てきて、それは何だったかなと考えてみると、島尾敏雄の小説『死の棘』に出てきたという記憶が蘇ってきた。はてさて、なにぶん記憶が曖昧なので正誤を確かめてみようとネット上をキーワード検索してみた。すると、どうやら出てこないらしい。仕方ないので『死の棘』を引っぱり出したて、ページをぱらぱらめくっていると…あった!248ページ。

「ほんとにグドゥマだな。ミホがくぐまって発作をはじめると、本当だ、グドゥマそっくりだ」と言いながら、私は妻の故郷の島の方言でそう呼ぶ貝が岩の間に頑なにくっついて外に出て行こうとしない恰好を目に浮かべていた。それはついさきほどそのなかに巻きこまれていたおそれと嫌悪のむなしさばかりでなく、つい笑いの浮いてくるおかしさが加わってくる。
「グドゥマはしてくれないほうがいいな。グドゥマをやめれば、こんなに明るいんだから。よおーし、起きてひとはたらきだ。伸一、食パンを買っておいで。食パン一斤、ピーナチュバタチュケテー」と伸一の口まねをしてお金を持たせた。

果てしない夫婦喧嘩を書いた私小説として大変ぼくも気に入っている『死の棘』*1は、夫の浮気が原因で妻が情緒不安定になり、一家離散と再生の間で揺れ続ける島尾一家の情景を詳細に綴った物語である。情緒不安定が高じた結果、それは発作的な精神病となり、妻はフラッシュ・バックに襲われるかのように、何かをきっかけとして突如狂乱する。もともと夫の浮気が原因なのだから、夫はひたすら自分の罪を償うかのように妻に弁解し、必死にいたわるのである。そういった状況で出てくるのが件の「グドゥマ」だった。
ぼくはなぜかこの言葉にとても魅了されてしまい、だからかなり前に読んだにもかかわらず無意識的に覚えていたのだと思うが、例えば「キレ」てしまいそうな出来事があっても、その時、ああグドゥマが来るなと考えると、何とも言えないおかしみが伴って激情が相対化されるのだった。もちろん意味的にはちょっと外れているのだが…。あるいは、ぼくの周囲の人でちょっと情緒不安定気味になったりしたら、内心ではグドゥマという言葉を使ってみたい気になっていた。それは『死の棘』でも書いている「妻の故郷の島の方言でそう呼ぶ貝」の姿を想像するとさらに可笑しい。
島尾敏雄の小説はそのような言葉の絶妙な使い方*2が素晴らしいと思う。『死の棘』のトシオは滑稽であるが、ミホは狂気に取り憑かれていてもなぜか可愛らしく思える。ぼくが生まれるぐらいの年の夫婦劇であるにも関わらず、全然古くさくなくて、むしろぼくと彼女の関係と重ね合わせて読めるぐらいの共感が持てる。夫婦あるいは家族という閉じた関係の中で、どんな(ディス)コミュニケーションがなされるかという問題を実に丹念に描いているのである。そういった面では方向性は違えど先日の青年団の芝居とも共通する。
島尾敏雄の魅力は不勉強のため言い尽くせないが、特攻隊だったことやロシア文学をやっていたことにも見出せそうだし、写真家の息子やソクーロフと共作した妻ミホや孫で『女子高生ゴリコ』を描いたしまおまほなど一家ですごいことになっている。『死の棘』も面白いけど、講談社文芸文庫柄谷行人が文を寄せた『贋学生』なんかも得がたい魅力に包まれている。あれは何なのだろう?あの物語も古くは思えなかった。特に言葉の使い方。
グドゥマという言葉から徒然なるままに考えていたら、ぼくの興味の方向がずれてしまった。それでも在宅バイトに伴う不快は解消されたから良しとしよう。さて。

*1:岸部一徳松坂慶子を主演にして小栗康平監督が映画化していて、これもなかなか良かった。NHKの「人間講座」かなんかで出版している小栗康平の講義の裏話等も興味深い。しかし、松坂慶子の裸を観るためならば、やっぱり深作欣二監督の『火宅の人』だろう。

*2:片言やカタカナの使い方など本当にうまいと思う。