濡れ場と倫理

資料としてヤフオクで落札した昭和39(1964)年の『週刊文春』で32歳の勝新のカラー写真をチェック。あまり情報としての価値はなかったのでがっくりだったが、他の特集記事がなかなか面白い。
「邦画五社の脱衣賞コンクール」という記事で、映画界の斜陽に対する各映画会社の奮闘ぶりが取り上げられている。今村昌平増村保造の映画を中心に各社の「脱がせぶり」が熱を帯びている様をよく伝えてくれる。若尾文子が脱ぐのは「芸術的必然性」であるという。若尾自身の言葉ではこうだ。

ハダカになるということと、エロチックとは違うと思うんです。必要なところというんですか、芸術的にどうしてもハダカにならなくては、不自然になるという場合に、私はハダカになります。別に好んでハダカになるわけじゃありませんけど…。外国の映画などでは、その必然性というのが、とてもスムースにいっている感じですね

岸田今日子の場合はこうだ。

左幸子さんとも話したんですが、ハダカよりももっとイヤなセリフや演技があります。たとえば、婦人科の医者の手術台にのるシーンなどイヤですね。今度の映画の場合、抵抗を感じなかったし、自然だと思ったからハダカになったまで……

いちばん面白かったのは、この前ユーロスペースで特集上映があったばかりの中平康加賀まりこに関する部分である。『月曜日のユカ』で加賀まりこがハダカを嫌がったのは有名らしい。それにまつわるエピソードのひとつを紹介している。

 中平監督が、加賀まりこに、女性が山の頂きに立ち至ったときの声を出せ、と要求した。
 加賀まりこ答えていわく、
「私、あまりケイケンがありませんので……」
「それじゃ、君のお父さんなら知ってるだろう。電話でもかけてきいてみるんだな」

どうやら加賀まりこは実際に電話をかけたらしい。
そんな興味深い記事の後にセックスやエロと映倫の関係についての記事が続いていた。そこを読むとなんと『座頭市 千両首』の話題も出ているではないか。うれしい誤算だ。
この映画の中では長谷川待子と勝新太郎が混浴するシーンがあった。座頭市が彼女に「ねえさん、いいオッパイしているねえ」と言うと、女は驚いて胸の辺りを隠すくだりがある。ぼくがスクリーンで観たときはもちろん乳首が見えることはなかった。しかし、それぐらいの内容でも、当時の製作側と映倫座頭市がめくらだからいいじゃないか、いや観ている人たちはめくらじゃないからだめだというつまらない論争をして、結局カットされた部分があったらしい。
濡れ場をめぐる問題は常に人々の関心を引くけど一体どうなっているのだろう?はっきりした基準はないのだろうか。今の時代が奔放になったといっても、現場によってまちまちだろうし、例えば自主制作の場合は自分たちの責任に基づくのだろうか。ぼくも学校で撮った自主映画で(一応)グラビアアイドル*1を呼んだ恥ずかしい過去があり、ああいった時の処遇なんかは事前に話を詰めているわけでもなかったので、後々トラブルになったら困っただろう。完全に内輪なら問題ないとは思うけど…。難しいところだ。

*1:ぼくの知人がバイトしていた事務所のお偉いさんに頼んだらしい。よってギャラなしで出演してくれた。バストは90はあっただろう。当時はホームページも持っていたし、これから売り出すというところだったのかなぁ…。たぶん彼女はすでに忘れているほどの記憶だろう。真夏の炎天下で一日中段取りの悪い撮影に付き合わせたのだから。